<説教要旨>
「生かされてある恵」(9/12)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
(テサロニケ第一5章16~18節)
毎年3月末に挙行される幼稚園の卒園式・謝恩会で、園児たちに聖句をプレゼントします。その聖句が上記のテサロニケ第一の言葉です。「喜び」「祈り」「感謝」の3つを大事に成長していって欲しいことを伝えます。しかも「いつも」「絶えず」「どんなことにも」です。実は結構難しい教えです。使徒パウロの執筆した手紙には、特に「感謝」という言葉がよく用いられます。このテサロニケ第一の手紙だけでも、多くの「感謝する」との表現(1章2節、3章9節など)がでてきます。この手紙にはパウロの生き方を象徴的に示す言葉である「感謝」が繰り返し語られています。
さて、そもそもパウロが語る「感謝」とはどのような思いで語られているのでしょうか。それは、神の恵という言葉と密接な関係があるものとなっています。聖書では、「感謝」とは、神の私たちへの慈しみ、私たちへの愛、その神の思いや行為に対する人間の基本的な態度、また、応答の心の表現をさして「感謝」といっています。
旧約聖書においては、神はエジプトの圧政に苦しむ奴隷状態にあったイスラエルの民を解放したという「歴史に働く神」の業が繰り返し語られています。つまり、モーセが率いるイスラエルの民が「出エジプト」の出来事を経験し、荒野の40年を経て「乳と蜜の流れるカナンの地」に導き入れられたという神の約束の出来事に感謝するとの構造をもっています。さらに、新約聖書では「神の慈しみや救いの出来事」と「人の感謝」という応答関係を、イエスの愛の業や赦しの行為の徴である十字架の出来事において、さらに明確になったとの理解を示しています。イエスの生涯と十字架の死に表された「和解の行為」、イエスの「無償の愛」、その恵みに対して感謝するという関係に深められます。
つまり、パウロの「感謝」の思いの根底にはイエス・キリストの生涯と十字架の死、さらに、復活という希望の出来事の中に示される神の愛の業が横たわっているのです。ここにパウロの「感謝」するということの奥深さがあります。それ故にパウロはどんな境遇においても「どんなことにも感謝しなさいと」と語っています。
確かに、感謝の言葉は大変美しく、人を繋ぎ関係づける言葉だと言われています。人を生かす言葉です。しかし、現実の私たちの生活の中では、感謝の思いよりも、むしろ不平や不満の言葉を語る方が多いかも知れません。満たされない心を常に抱いて生活を営んでいます。特に、コロナ禍の中で現在と将来に向けての不安が増幅しています。その中で、小さな弱い自己の存在を直視しつつ、イエスの深い愛と和解の業を少し深く見つめていく時、そこに決して自明でない感謝の思いがわき起こってくるのです。
(説教要旨/菅根記)