- 神戸教会140年の歩み - 

1869年

宣教師 D.C.グリーンの来日

ペリー来航より11年、サンフランシスコから開国したばかりの日本に向けて一隻の蒸気船が出航した。 船上には結婚したばかりの若い宣教師夫妻が乗っていた。 ダニエル・C・グリーンとメリーはアメリカンボード最初の日本派遣宣教師としての任命書を携えていた。 来日後、任地を神戸に定め、居留地に外国人のための礼拝を行うことで宣教の歩みをはじめた。 神戸教会の創設、聖書の翻訳、同志社での教育に力を尽くし、終焉を日本の地でむかえ、一粒の麦の生涯をとじた。

1871年

切支丹禁制のもとで

宣教師たちは活気あふれる開港地である神戸に居を構えた。当時、日本の地は「切支丹邪宗門ノ堅ク御禁制タリ」との高札が掲げられ、開国日本になお暗い影を落としていた。 明治政府は西洋文明に門戸をひらき、帝国主義列強に抗する近代国家形成を急いだが、そのエートスであるキリスト教に対しては旧幕府時代の方針をつらぬいた。 キリシタン弾圧はつづけられ、グリーンの動静も官憲の監視のもとにあった。 1971年、ついに彼の側近である日本語教師市川栄之助、まつ夫妻が逮捕され、栄之助は獄中病をえて死去。ただし、在獄中の消息は明らかにされていない。この事件は岩倉具視特使がワシントンで条約改正中に駐日公使からの提議によって論議され、高札撤去の一因となった。

1872

伝道の地 三田

神戸から北北東30キロの奥地にある三田の地とキリスト教とのつながりは、1872年、避暑地有馬でのデーヴィスと三田藩主九鬼隆義との出会いにはじまる。三田は小藩ながら、早くより洋装断髪を施行し西洋風の生活を取り入れ、英学を推進、福沢諭吉をブレーンにもつなど、近代に対する感受性において著しいものがあった。 三田藩士の過半は新時代の到来と共に神戸に出て宇治野村英学校、神戸女学院、神戸教会創立の人脈をなした。 一般に明治期のキリスト教の源流として植村正久らを擁し日本最初のプロテスタント教会を創立した横浜、海老名弾正ら同志社系列につらなる流れを生んだ熊本、クラークの薫陶を受けた内村鑑三を擁する札幌が挙げられ、キリスト教受容やその後の思想的展開、人脈などに興味深い相違がみられる。しかし、、多くは幕藩体制が崩れた中で志の得られない佐幕派青年士族層が中心であり、そのうつうつとした熱情を思うとき、三田士族のからりとした明るい闊達さ、合理性、時代に対する鋭敏な対応などは特筆に価する。それは神戸教会の性格規定の根幹のひとつをなした。(写真:三田藩最後の藩主九鬼隆義と伴侶園子。1888年4月24日原田助より受洗。しかし、入信には三田内部での反対が強かった。)

1873

神戸女学院の創立

背筋をまっすぐにして歩きなさい―― これは猫背、内股でうつむきがちな明治女性に対する宣教師タルカットの叱咤である。「神の前に主体として立ちなさい」というメッセージは、封建的因習のうちにとらわれていた女性にきわめて強いインパクトを与えた。日本の女子教育の先駆けはキリスト教によってなされた。 1873年米国婦人伝道会社より派遣されたタルカットとダッドレーは私塾「女学校」を花隈に開設。さらに75年、伝道者養成のための寄宿学校を諏訪山の麓、山本通に開校。生活を通して豊かな宗教的影響を与えることを目的とし、多くのクリスチャン・ワーカーを輩出した。 同校はさらに神戸英和女学校、神戸女学院と発展し、女子の高等教育機関としての存在を明らかにする。1933年に西宮に移転するまで学生、教職員、卒業生ら同校関係者が教会在籍者の過半を占めるなど、神戸教会と密接な関係をつづけた。(写真左人物:イライザ・タルカット、右人物:ジュリア・E・ダッドレー、背景建物写真:1875年落成の女学校(通称「神戸ホーム」)の校舎。)

1874年

神戸教会の創立

1873年、切支丹禁制令が解かれ、本来の伝道活動が可能となった宣教師たちは、まず繁華街である元町通にキリスト教の書店をひらいた。そしてその建物の半分を礼拝堂として整えた。 礼拝に出席した村上俊吉は「僕は風琴の音も讃美歌も此時が始めてで塵外仙境に入つた心地がした」と印象を述べている。礼拝とともに聖書研究会や祈祷会ももたれた。さらに神を信じる者同士の交わりの場として、教会設立が希求された。 時は満ち、翌74年4月19日グリーンより11名が受洗、感銘のうちに「摂津第一公会」を創立。デーヴィスは「この日から愛が新しい意味をもった」と奨励をなした。また、松山高吉が200名におよぶ聴衆を前に洗礼の説明、信条の朗読をおこない、前田泰一が聖餐式に先立つ奨めをなすなど、青年たちが礼拝の主要部分を担当、教会形成において日本人信徒のきわだつ主体性を示した。(元町講義所。前に立つ人物は前田泰一といわれている。)

1878年

新しい会堂

神戸教会も、当初は宣教師依存の状態がつづいた。 しかし、会員相互が力を出し合って経済負担をするという「自給教会」の形成を目指し、自分たちの会堂建築への希望を持っていた。 1876年より準備に着手し、ミッション(宣教団)の補助をあおがない方針で募金につとめた。 ついに78年11月、北長狭通(きたながさどおり)6丁目にアメリカ開拓期様式の新会堂を竣工した。(写真は新しく建てられた神戸教会堂。「CHURCH KOBE 第一公会」の看板が掲げられている。)

1880年

初代牧師 松山高吉

会堂建築をなしおえ、充実した力をつけた教会は、初代牧師として、1880年、松山高吉をむかえた。グリーン、デーヴィス、アッキンソンなどの宣教師は仮牧師として牧会にあたっていた。この日本人牧師の招聘は、自給教会の形成とともに、ミッションからの独立のためのもうひとつの課題でもあった。 松山は越後糸魚川の人で、キリスト教を探求批判する目的でグリーンに近づいたものの、その感化を受け、逆に熱心な信徒となった。国学のゆたかな素養をもって聖書和訳、讃美歌編纂事業に貢献した。 1884年に神戸教会牧師を辞任、平安教会牧師を経て、同志社、平安女学院での教育事業に力を尽くし、のち聖公会に移った。妻の経(つね)は、諏訪山山麓の地を占める中宮村の庄屋塚本伊左衛門・やす夫妻の長女で神戸ホーム(のちの神戸女学院)に学び、子女10人を育てつつ牧会の内助を果たした。また、その一族は神戸教会でも重要な役割を担った。

1880年代

信徒群像

明治の初めの信徒の生活はどのようなものだったのだろう。「神戸教会規則」によれば、まず礼拝が第一義的なものとして守られ、信徒は生活上の多大な犠牲を払いつつも日曜日に集い、祈り、食し、交わりをともにした。教会組織は牧師のほかに、世話役としての執事が選出され、会議制によって民主的に運営された。神戸教会では早くより女性の執事が選ばれた。会員は収入に応じて月毎に献金をささげ、伝道と教会維持に充てた。 古い共同体規制の枠からは、いくぶんはずれた新興地であるとはいえ、彼らのキリスト教に立つ新しい生き方は、少数派としての気概と困難にみちていた。(写真左:草創期の男性会員。神戸女学院にて撮影。 写真右:1884年松山高吉送別会に集まった女性会員。神戸女学院にて撮影。)

1884年

原田助とYMCA

「鹿鳴館」を象徴とする欧化主義の波は、開港地神戸において、いっそうの高まりをみせた。「ハイカラ」な欧米文化に対する憧憬は、洋装、束髪などの風俗から精神文化におよび、多くの人々が教会を訪れた。 また、この頃、キリスト教界内部では、信仰的熱狂をともなう「リバイバル」運動がひろがり、知性にとどまらない宗教体験としてのキリスト教が受けとめられていった。そして、さかんな伝道活動が繰り広げられていった。教勢は飛躍的にのび、信徒のあいだには「キリスト教国日本」のヴィジョンさえ囁かれた。 1884年、松山高吉の後任牧師として、同志社神学校卒業まもない原田助(はらだ・たすく)が就任。教会は清新の気がみなぎった。うつぼつたるエネルギーは教会内にとどまらず、青年のための交流団体「神戸基督教徒青年会」の創設に結実した。 原田は89年、在任中に米国へ留学、終生国際人として活躍した。また1898年から再び神戸教会の牧会をにない、さらに同志社社長に就任。その思想、人脈において神戸教会に多大な影響力をもった。

1886

女性信徒の活躍

欧化主義を背景とするキリスト教界の活況は、女性のめざましい社会活動をうながした。 1886年には「婦人英学会」「神戸婦人会」「神戸婦人禁酒会」が相次いで発足。また同年11月には、伝道者養成所として「神戸女子神学校」が創設された。さらに、貧困などの社会問題への視角をもつ「禁酒会」は「日本婦人矯風会」の端緒に、「神戸婦人会」の働きは頌栄保母伝習所・頌栄幼稚園(現、 頌栄保育学院)の創設につながる力量をみせた。 そしてこれらの多彩な活動が、女性宣教師のもとで育てられた神戸女学院の初期卒業生や、その母親の世代に当たる女性たちによってになわれたことに注目したい。このような女性層の存在は、神戸におけるキリスト教受容や伝播の経路として、重要な位置を占めた。彼女たちのはたらきが、さらに新しい世代の女性を育むという層の厚さを増しつつ、現代にいたる流れを形づくった。(写真:神戸女子神学校の校舎。)

1888

下山手の会堂

教勢の飛躍的進展にともない、教会は下山手6丁目(現在の中央区花隈)に敷地を購入。1888年、教会堂を竣工した。近代都市の様相をととのえだした神戸にふさわしいモダンで美しい会堂は注目を集め、講演会や音楽会など都市の多元的要求にこたえる、開かれた会堂としての役割もにない、教会内外の人々に親しまれた。

1889

ハウと頌栄

頌栄保育学院は1989年、創立100周年をむかえた。神戸教会と頌栄はその誕生から現代に至るまで緊密な関係を有する。 神戸教会の婦人会を中心とする「神戸婦人会」のはたらきが頌栄創立の道そなえをしたことはすでに述べたが、同会は1887年、指導者としてシカゴ幼稚園園長であり保育と音楽の専門家ハウを招き、89年幼稚園、保母伝習所を開園した。1903年米国婦人伝道会に経営を移管するまで物心両面の援助をつづけた。 ハウは日本における幼稚園教育のパイオニアとして、またフレーベル主義の伝達者として多くの教材を紹介、著作を残した。そのきわだつ美しさと個性は接する人々に深い刻印を与えつつ、有能な人材を各地の幼稚園に送り出した。(写真右:大正期の頌栄幼稚園。世界各国の旗が飾られ国際性を養った。)