神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約140名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2019年4月21日(日) 午前10時15分より
【復活節第1主日】 イースター礼拝

説 教 
「尽きぬ命との出会い
菅根 信彦牧師

聖 書:ルカによる福音書24章13~35節
讃美歌:21-333、21-575、21-510








「尽きぬ命との出会い」(4/21)

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿が見えなくなった」
                                      (ルカ福音書24章31節)
 人生には「往きの旅」と「戻りの旅」があると言われています。人生の分岐点、大きな出会いによって人生が転換する時があると言われています。本日の聖書個所は、二人の弟子が復活したイエスとの出会いを契機にエルサレムに戻っていきます。落胆から熱い思いに駆られて「戻りの旅」を始めていく物語です。エルサレムからエマオの町は60スタディオン(約11キロ)の道程。そこで起こった出来事が記されています。
 キリスト復活の日、時は夕暮れ、クレオパともう一人の弟子は太陽の沈む西の方角に向って歩きだします。仏教では西の方に浄土があるといわれています。それは太陽が沈んでいくその間際に最後の耀きを出す彼方に人々の魂の故郷があるとのイメージを彷彿させます。イエスが十字架で処刑され、逃げ回っていた多くの弟子たち同様に、エマオへと向う二人にとっては、落胆と失意の旅であったに違いありません。
 しかし、その二人にそっと寄り添うように一人の旅人が同伴します。それが復活のイエスです。しかし、二人の弟子たちはそれがイエスであることが分かりませんでした。「二人の目は遮られていて」(16節)とあるように彼らの心は固く閉ざさされたままでした。しかも、彼らは婦人たちが空虚な墓を目撃して「イエスは生きておられる」(21節)との伝聞を受けとめていたのに関わらず失意の中にいたのです。
 この二人の弟子が失意から解き放たれていったのは、イエスと共に食卓に着いた時でした。共にパンを裂き、あの「最後の晩餐」のように、食卓を共にするという具体的なイエスとの出会いの中で彼らの目は開かれていきます。まさに「心の鈍き」(25節)存在にイエスが最初から同伴し、最後は晩餐の行為を通して気づきを与えていきます。
 キリストがエマオでその弟子たちと出会われた。弟子たちはイエスが甦られたことを晩餐の恵みと、その業を通してイエスと出会うという体験に結びついた時、彼らは「心の燃える」経験をします。そして、再びエルサレムへと「戻りの旅」を開始するのです。エマオへの途上の物語は「甦りとは何か」という議論をするのではなく、日常的な場面に主が共にいますことを信じ、神の命に共に預かっているとの恵みを経験することこそが復活を信じることであると伝えています。すなわち、具体的にこの地上に生きたイエスの人格に触れること、人格的な関係を見分けることこそが復活の命に生きることであると強調しているのです。イエスが今、私たちと共なる歩みをしてくださっている、そのイエスの人格性に触れることです。彼らは、イエスの尽きぬ命に触れた時「戻りの旅」へと転換させられていくのです。(本日説教要旨/菅根記)