神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約140名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2018年10月28日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第24主日
【秋の公開集会】

説 教 
「祈りつつ」
福井 生氏
聖 書:コロサイ人への手紙 4章2
讃美歌:21-55、21-487






「幸いとは何か」(10/21)

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」  
 (マタイ福音書5章3節)
 「幸い」と言う言葉を見てみると、「幸せ」とよく似ています。「幸い」と「幸せ」を国語辞典で調べてみると、あまり意味として変わりはありませんが、「幸せ」は幸運や巡り合わせなどの「運」という要素が強く含まれています。「幸い」とは、今の時点で幸せな状況であること、または自分の願いが叶えられる様子であり、人がすでに幸せな状態または、求めている物や事が確実に与えられる約束の状態にあります。そのため「幸い」と「幸せ」は同じような意味を持つ言葉ですが、異なった性質を持つ言葉として理解がなされます。
 今回お読みした聖書箇所マタイ福音書では、「幸いな人」という言葉を中心に聖書のお話が語られています。この「幸い」と言う言葉は、古代ギリシャ語で「マカリオス」と言う言葉が用いられ「最高度の幸福と幸福感」と言う意味がなされています。また、へブライ的文化でも「幸い」が用いられ、「幸福」の意味が付けられています。しかし、この時の「幸福」の意味は、人間が感じる幸せの幸福ではなく、神との深い交わりの中に入る幸福という意味があり、本当の意味での「幸いな人」とはどのような人物なのかについて書かれているのです。
 その中で、4節~6節と7節~10節では8つの「幸いな」人物像が描かれており「幸いの人」を2つに分け描きます。4節~6節の間に出てくる「幸いな人」は、いわば人が幸せだと感じることが出来ない出来事。それは、個人悲惨な状況に置かれた人が「幸い」であると書かれています。そして7節~10節では、人の態度について示され、神の働きに参与する人間の態度。それは、「心の清い人」や「平和を作り出す人」など神の求める働きに応答する人こそが「幸い」であると言うのです。
 この箇所に共通して示される「幸いな人」とは、「救いを求め、神を信じる人」であると示されています。それは、「幸いな人」は人の地上での歩みについて幸福が今後もたらされる。または、幸せな生活を送る人達が「幸いな人」ではありません。それこそ、本当の意味での「幸いな人」とは終末的終わりを迎える時、神を信じ救いを待ち望む人こそが「幸い」である。どのような状況に置かれても神からの祝福を待ち望み、示された道を共に歩んで行く者こそが「幸いな人」であると語られるのです。そのため、弟子たちには12節でイエスが示すように、人がどのような苦しみの中にあっても「喜びを持って」神を信じ福音を伝える信仰の道を歩むことをイエスは弟子たちに求められたのでした。
(本日説教要旨/井上記)