神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築87年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2020年10月25日(日) 午前10時15分より
【降誕前第9主日


説 教 
「神と共に、私たちと共に」
髙塚純平伝道師

聖書:箴言8章22~31節
讃美歌:21-361、21-463






自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさとIMG_9846.JPG

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこびDSCF9930.JPG

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

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「神と共に、私たちと共に」(10/25)

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」

(箴言8章22節)

 今週より教会暦において「降誕前節」といわれる時期に入りました。週報の表記では「降誕前第9主日」となっております。これまでの半年間は「教会の半年」と呼ばれ、「聖霊降臨」の出来事より、私たちの生きる現代まで、教会の業が、宣教の業がつなげられてきたことを覚える期間でありました。今週からは、イエスの誕生の時を覚え、その記念の時を迎えるための「備えの時」に入ります。この「降誕前節」では、よく創造の出来事から預言までの旧約聖書の物語が取り上げられ、その初めの時から今につながる救いの出来事を思い起こす時とされています。本日は、「降誕前節」、その初めの週ということで、聖書日課によって与えられました、箴言の言葉から共に考えていきたいと思います。
 箴言は、旧約聖書の中の、律法・預言書・諸書の中で、「諸書」に分類される書物で、さらにその中でも「知恵の書」と呼ばれるものです。「箴言」と名付けられていますが、「教訓」や「戒め」となる言葉との意味を持ちます。この「教訓」や「戒め」は訓言として記されたり、詩として詠われたり、様々な方法で記されております。これらはイスラエルの宗教の中で、またその民族の歴史の中で積み上げられてきた経験から与えられた「知恵」であります。この「知恵」とは、まさに「生活の座」、現実を生きるうえで必要な教えとして大切に、伝えられてきたものであります。「神と共に生きる民族の「生活に根差す知恵」、「神と共に生きる者の知恵」であるのです。
 本日の聖書箇所である箴言8章は、知恵者「ソロモン」の名によって記された言葉です。実際の執筆者はソロモンではなく、バビロン捕囚後の時代を生きた人々であるといわれております。この箇所で特徴的なのは「知恵」が擬人化されて描かれている点です。8章1節には「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」との言葉から始まり、そして4節より「わたし」として「知恵」の勧めが語られていきます。
 本日お読みいただいた箇所である22節からでは、天地創造の出来事がモチーフとされ、語られております。そこで「わたし(知恵)」がその初めから神と共にあったことが示されます。そして、その「道」を神と共に造り上げていったことが語られていきます。さらにその後、31節に「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と続きます。初めの時から「神と共に」あった「知恵」はその後も「人と共に」あることが示されているのです。そして、32節の「さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」との言葉によって、わたしたちと共にある知恵が示す道を歩み、知恵と共にある神のその道を歩んでいくことを勧めるのです。

(説教要旨/髙塚記)

「神の深い知恵」(10/18)

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

(ローマ書11章33節)

 ローマの信徒への手紙は、使徒パウロの福音の中核である「神の義」を主題としてそれを壮大な構想のもとに彼が論述したものです。その内、9~11章は「イスラエルの躓き」の問題が取り上げられています。パウロは「神の義」(1章18節~4章25節)と「信仰の義」(5章1節~8章39節)の真髄を踏まえて、また、「兄弟」であり同胞であるイスラエルの躓きについて深い心の痛みの中で、不信の意義、福音の秘儀、救済史の意味を解釈し説明しようとします。
 つまり、「義を求めなかった異邦人が信仰による義を得たのに、選ばれた民イスラエルは義の律法を求めたのに、その律法に達しなかったのはなぜか」(9章31節)と問いかけ、パウロは、イスラエルの民が「神の義を知らず、自分の義を求めた」(10章3節)ことを指摘します。信仰によってではなく、行いによって義を得ようとしたイスラエルの民の躓きを語ります。しかし、パウロはその躓きにも意味があることを強調します。すなわち、神は「ご自身の民を退けたのではなく」(11章1節)、頑なにされた多くのイスラエルの民の躓きが、「かえって異邦人に救いがもたらせる結果になり」、さらに、「ねたみを起こさせるためであった」(11章11節)と語るのです。イスラエルの罪が「世の富」となり、失敗が「異邦人の富」となる、そして最後には皆救いにあずかるとすれば、どんなにか素晴らしいかとパウロは神の計画である救済史を説くのです。
 そして、異邦人に対しては「野生のオリーブ」(11章17節)と称し、接ぎ木された存在であり、根から豊かな養分を受けるようになったからと言って、折り取られた枝(イスラエルの民)に対して誇ってならないことを勧告します。さらに、頑なになったイスラエルの民の救済の確信を、神の富と知恵と知識の深さを讃えて論述を終えようとします。その締めくくりが本日の聖書個所です。
 パウロは、異邦人キリスト者に対して「自分を賢い者とうぬぼれない」(25節)こと、そして、異邦人全体が救いに至ったときにこそ全イスラエルの救いが始まるという、神の計画という「時」の問題を提示します。救われるはずの者が救われずに、救われるはずのない者が先に救われる、従順と敬虔を求められた者が不従順と不敬虔の者となるような、人間の知恵を遥かに超えた逆説的な出来事をパウロは語り、最後は神への賛美と頌栄で論述を終えるのです。それは、パウロ自身の信仰的現実を示したものとなっていま。すなわち、罪と呻きの中で苦悩する自分が福音によって生まれ変わらせられたという出来事と、さらに、信仰生活を歩む中で起こる艱難や苦しみを抱きながら、終末的希望に、過去も現在も未来も包まれているという彼の喜びの表明であるのです。

(説教要旨/菅根記)



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