神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築87年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2021年1月24日(日) 午前10時15分より
【降誕節第5主日
説 教
「貧しさと悲しみと」
髙塚純平伝道師

聖 書
ルカによる福音書6章20~23節
詩 編
9篇8~19節
讃美歌
21-57、21-289





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「貧しさと悲しみと」(1/24)

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

(ルカ福音書6章20節)

 本日の聖書箇所、ルカによる福音書6章20節からで語られるイエスの説教は、「平野の説教」、マタイの並行箇所で言えば「山上の説教」として知られる有名な箇所です。そして、さらに本日の箇所である20~26節の言葉はその中でも大変有名な「至福の教え」と呼ばれる箇所です。そして、ここで語られる逆説的な教えは、まさにイエスの思想を色濃く示しているものであると言えます。「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」「憎まれ、追い出され、ののしられ」ている人々。本来であれば、「不幸」であると捉えられるそんな人々をさしてイエスは「幸いである」と語っております。この箇所を初めて読むときこの言葉を素直に受けることが出来ず困惑してしまう事かと思います。なぜ「貧しいこと」、「飢えていること」、「悲しんでいること」が「幸い」になるのか。どうしてそんな事が言えるのか問わずにはいられません。
 この箇所について神学者である田川健三氏はその著書『イエスという男』の中で次のように触れています。「周囲の人々が貧しさから来る栄養失調で容易に病気にかかり、多く死んでいくような中で生きているアフリカの神学校の学生にたずねてみた。「諸君は聖書を信じているというが、本当に貧しい者は幸いだと思っているのか。」彼らはげらげら笑って相手にもしてくれなかった」。私たちはこの現代の日本という国に暮らしている中で、本当の「貧しさ」というのものを実感することは中々ないのではないでしょうか。そのわたしたちが聞く「貧しい人々は幸いである」という言葉と、本当の「貧しさ」の中にある人々が聞く言葉とはその受ける印象も、受けるメッセージも違ったものになるのではないでしょうか。
 イエスはその生涯をもって貧しくされる人々、差別を受ける人々、縮こまり、うずくまってしまうような人々のそばにいました。そのイエスの立ち位置というのは、その人々をただ助ける、施しをするというものではありませんでした。隣に立ち、歩き、共に座り、共に語り、共に食事をする。そして、その人々の苦しみ、悲しみ、また、喜び、楽しみをもすべて共有されて、同じ立場にあってその言葉を語っていかれました。苦しい中にある、悲しい中にある、立ち上がれないような思いの中にある。それでもそこにイエスは共におられて、「大丈夫」「希望はある」「あなたは見捨てられていない」と語り、励ましてくださるのです。
 本当の苦しみ、悲しみ、貧しさを知ってくださっているイエスだからこそ語ることが出来たこの「幸い」の言葉。励ましの言葉。これを受けて、苦しい中でも希望をもって歩みを進めて生きたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)

「ただ、主イエスに従う」(1/17)

「イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

(マタイ福音書4章19節)

 本日の聖書個所はイエスが「弟子たちを招く物語」です。弟子たちの側からすれば「イエスに従う物語」です。イエスを信じ、従っていくという単純な物語の展開となっています。このような召命物語はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書、さらにヨハネ福音書にも随所に見られます。特にマタイ福音書は弟子たることの意味や覚悟を多方面から問うような物語が幾つもあります。
 イエスがガリラヤで宣教活動を開始した時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)という宣言でした。その直後の出来事として4人の漁師を弟子として招く物語が続いています。いわゆる「弟子の入門」の物語です。ここでは、2組の兄弟、シモン・ペトロとアンデレ兄弟と、ヤコブとヨハネの兄弟が仕事中、イエスより「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(19節)との招きの言葉を投げかけられます。そして、4人はそのイエスの呼びかけに応えて「網を捨てて」従って行きます。そして、彼らがイエスの最初の弟子となります。
 「わたしについて来なさい」とは、招きというよりも「無条件的要求」と言えます。「従う」と同義語です。特に、イエスに最初に呼びかけられたペトロは、「ペトロと呼ばれるシモン」と紹介され、マタイの教会では彼が親しまれ、既に特別な存在となっていたことを示しています。そのことは、後のペトロの「キリスト告白」(16章17〜19節)に対するイエスの「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。・・わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」との言葉からも理解できます。12弟子のリスト(10章2〜4節)にはペトロは弟子の代表的存在として冒頭に上げられています。
 しかし、他方ではペトロの人間としての弱さがしばしば描写されています。上述の「天国の鍵」発言の直後に、ペトロは「サタンよ、引き下がれ」(16章23節)とイエスに激しく叱責されます。また、ゲッセマネの祈りの際、3度も居眠りをしてしまったのもペトロをはじめとする最初の弟子たちでした。さらに、逮捕後に鶏が鳴く前に3度「そんな人は知らない」とイエスを拒んだのは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と明言した直後のペトロ自身でした。そこには、従い切れない弟子の姿とそれを分かって弟子として招くイエスの緩みある人格性を見ることができます。
 イエスの招きに応えるには一つの決断がどうしても必要です。確かに決断は自己の全存在を投げ込むことです。しかし、それは同時に、慈しみに溢れたイエスの赦しの深みを知ることでもあるのです。イエスの招きに応えることは、信仰の豊かな世界を知る大切な一歩であるのです。

(説教要旨/菅根記)

前の説教要旨は下の説教題をクリックすると見れます。(12月以前のものは月ごとにまとめています。)