神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築88年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子

<礼拝案内>

主日礼拝
2021年11月28日(日) 午前10時15分より
【待降節第1主日



説 教
「主を待つ心」
菅根信彦牧師

聖 書
ルカ福音書21章29~36節
詩 編
82篇1~8
讃美歌
21-241、21-474





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「主を待つ心」(11/28)

「いつも目を覚まして祈りなさい」

(ルカ福音書21章36節)

 「あなたはエレベーターを使う時“閉”のボタンを押しますか」と聞かれたことがあります。私は必ず押してしまいます。実は、エレベーターの開閉ボタンを押さなくても5秒ぐらいで自動で開閉するそうです。日常生活ではその5秒が待てないことにはっとさせられました。
 本日から、「アドベント」(待降節)となりました。「アドベント」はラテン語の「アドヴェニオー」が語源となっています。これは、「来臨する」「接近する」「到来する」あるいは「突然起こる」という意味があります。その救いの到来である救い主を心して待つ季節となりました。もちろん、「果報は寝て待て」という諺がありますが、そのような気長な待ち方でなく、「期して待つ」ことが求められています。
 本日の聖書個所でイエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と弟子たちに語ります。この個所はマルコ福音書13章の「小黙示録」を基にまとめられたものです。エルサレム滅亡と終末問題について触れ、日常をどのように生きるかを問うている個所です。イエスは終末の備えについて、先ず「いちじくの木の譬」(29~33節)を用いて話します。いちじくの木は、常緑樹の多いパレスチナにおいてこの木が新葉と新芽を現す時、冬の終わりを告げるしるしとして人々に周知されていました。そこから民族の運命の象徴として言及されています。イエスは終末が将来に起こることを明言し、同時に、「中間時の倫理」として捉え、キリスト者の生の在り方を深く示唆します。
 これらのイエスの言葉の背後には、ローマ帝国からの独立を求めたユダヤ戦争(AD70年)の敗北と、エルサレム神殿の崩壊の出来事がありました。そのような民族の危機と混乱の中で、歴史性を失った熱狂主義、あるいは厭世的無気力な懐疑主義に走っていく人々の問題があったようです。
 「目を覚まして祈りなさい」とのイエスの言葉は、世の終わりへの安易な期待や、日常からの逃避ではありません。現実の苦難や厳しい人生の課題を負って生きる中でも、個々の使命や責任をもって歩むことを促すものとなっています。さらに、共同体である教会の宣教の働きに弛まず励むことが求められています。「やがて」現実化する神の救いの完成を期して待つこと、同時に、「いまだ」救いの完成が途上であることを確認しつつ歩むこと、その緊張感が漂う言葉となっています。
 待降節(アドべント)の第一主日を迎えました。主の待つ信仰の季節となりました。「待つ」とは「思慮深く見ること」「開かれた眼差しで待つ」ことを意味します。日常の営みの中で出会う出来事の一瞬一瞬を「目覚めて」受けとめ、信仰的自覚と弛まざる祈りを捧げて歩んでいきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「天に富を積むこと」(11/21)

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」

(マルコ福音書10章27節)

 本日は「収穫感謝日」として、礼拝を守っております。共に、「神によって与えられた恵み」について聖書の言葉から聞いていきたいと思います。
 本日聖書日課によって選ばれた聖書の個所、マルコによる福音書10章17~31節では「金持ちの男」という小見出しが付けられた物語が記されております。ここでは、「永遠の命を受け継ぐ(17節)」方法に関するイエスと男の問答が描かれております。この物語の中で印象的な言葉として「見つめる」というイエスの姿が21節と27節の2度にわたって記されます。一度目はイエスの示された十戒の項目を「守ってきた(20節)」と答える男を、「慈しんで」「見つめ」られる場面。そして二度目は神の国に入ることの難しさに困惑を示す弟子たち(26節)を見つめられる場面です。一度目にはイエスに対してある種高慢にとれるとも思える態度で答えた男に対して、二度目にはイエスの言葉を正しく理解出来ない弟子たちに対してでありますが、これは決してこの男や弟子たちを戒める意味や責める思いをもって行われた行為ではありません。そのことは、21節にイエスが男を「慈し」まれたと示される事からもわかることです。
 相手を見つめるということは時としていくつもの言葉で語るよりも多くのことを、あるいは深いことを相手に伝えていきます。特にそれは、一対一の一個の個人として関係性を結んでいく時になされる関わりです。相手の「じっ」と見つめていく。それは「あなたとの関係性が今ここにある」ということを示す行為です。聖書においては神と人との関係性が記される時、創世記のアダムとエバの物語においても神との約束を破った二人は「主なる神の顔を避け(創世記3章8節)」たとあるように、顔を背ける行為はその存在を受け入れず拒絶する行いとなります。それとは逆に向き合い「見つめる」という行為はその存在を受け入れ、関係性をつないでいく行いです。イエスがこの男や弟子たちを見つめられる姿は、その存在をその本質から見つめ受け入れ、関係性をつないでいこうとされる愛に溢れた姿であります。
 神の前に常に正しくあり、神に喜ばれる「善い者(18節)」となる事は人間には大変難しい事かもしれません。向き合うことが出来ず、顔を背けてしまうのはいつだって弱さを持つ人間の側であります。しかし、イエスがそのように示されたように、神はいつでも私たちを「じっと見つめ」、私たちがそれに気づき向き合うことを待っておられます。恵みはいつでも私たちの行いに先行して与えられるのです。その与えられた恵みに感謝して、神の前に立たされていくとき、私たちは神の豊かな恵みゆえに、すべての所有は放棄され、何一つ持たずに、主の示された道を、恵みへの感謝をもって主にゆだねて歩んでいくのです。

(説教要旨/髙塚記)


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