神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約140名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2018年12月2日(日) 午前10時15分より
【待降節第1主日
【待降節・アドベント】


説 教 
「むなしく戻らない言葉」
飯 謙教師
聖 書:イザヤ書55章1~11節
讃美歌:21-55、21-430







「主を待ち望む」(12/2)

「その日、その時は、だれも知らない」
(マルコによる福音書13章32節)

  「果報は寝て待て」という諺があります。「運は人の力ではどうにもならないからあせっても無駄である。人事を尽くしたあとは気長に待つこと」を促すものです。しかし、信仰の果報は寝て待っても来ないようです。イエスは弟子たちに繰り返し「目を覚ましていなさい」と語りかけます。このイエスの言葉は、「時」をつかんで生きること、「期して待つこと」の大切さを示す言葉となっています。
 本日の聖書個所であるマルコ福音書13章は「小黙示録」と呼ばれている個所です。世の終わり、終末が黙示文学の表現をもって語られているところです。イエスが十字架刑に処せられ、復活し、天にのぼり、キリスト・イエスが再びこの世に来られる(「再臨」)ときの世の終わりの様子が描写されています。
 イエスは終末の備えについて、先ず「いちじくの木の譬」(28~31節)を用いつつ「はっきり言っておく」と断言調に語ります。いちじくの木が常緑樹の多いパレスチナにおいてこの木が新葉と新芽を現す時、冬の終わりを告げるしるしとして、人々に周知された隠喩であったことから、民族の運命の象徴として言及されています。イエスは終末が将来に起こることを明言し、同時に、「中間時の倫理」として捉え、キリスト者の生の在り方を深く示唆する教えとして語っています。
 これらのイエスの言葉の背後には、ローマ帝国からの独立を求めたユダヤ戦争(AD70年)の敗北と、殊にエルサレム神殿の崩壊の出来事がありました。そのような民族の危機と混乱の中で、歴史性を失った熱狂主義、厭世的無気力な懐疑主義に走っていく人々の問題があったようです。「旅に立つ人の譬」(34節)では、個々の役割や使命をもう一度確認していく内容となっていることからも、日常性を大切してなお希望をもって生きることが強調されています。
 「目を覚ましていなさい」とのイエスの言葉は、世の終わりへの安易な期待や、日常からの逃避ではありません。現実の苦難や厳しい人生の課題を負って生きる中でも、個々の使命や責任をもって歩むことを促すものとなっています。さらに、共同体である教会の宣教の働きに弛まず励むことが求められています。「やがて」現実化する神の救いの完成を期して待つこと、同時に、「いまだ」救いの完成が途上であることを確認しつつ歩むこと、その緊張感が漂う言葉となっています。
 待降節(アドべント)の第一主日を迎えました。主の待つ信仰の季節となりました。「待つ」とは「思慮深く見ること」「開かれた眼差しで待つ」ことを意味します。日常の営みの中で出会う出来事の一瞬を「目覚めて」受けとめ、主人の帰りを待つように心備えをしていきたいと思います。
(本日説教要旨/菅根記)