神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築88年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子

<礼拝案内>

主日礼拝
2021年9月19日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第18主日

説 教
「掴もうとする力を緩めて」
菅根信彦牧師

聖 書
マタイによる福音書19章16~30
詩 編
119篇33~40
讃美歌
21-8、21-197





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「掴もうとする力を緩めて」(9/19)

「貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」

(マタイ福音書19章21節)

 「ものをほしい心から離れよう/
 できるだけつかんでいる力をゆるめよう
 みんな離せば/死ぬるような気がする 
 むりにいこじなきもちを離れて/
 いらないものから一つずつ離していこう」
(八木重吉作『ねがい』より)
 八木重吉は1898~1927年まで活躍した詩人。東京南多摩(町田市)生まれ。東京高等師範学校在学中の1919年に洗礼を受けたが、しだいに内村鑑三の無教会主義の信仰に近づいていく。1921年兵庫県御影師範の英語教師として赴任。このころから詩作に熱中し、詩と信仰の合一を目ざすようになる。第一詩集『秋の瞳』を刊行。しかし、翌26年より結核のため病臥。1927年(昭和2)10月26日没した。
 ところで、人間の生き方の中には、富み栄えていく生き方、何かを獲得していく生き方に象徴されるような「足し算的生き方」と、他者のために自分の中にある「賜物」を献げていくような「引き算的生き方」があるように思います。イエスの十字架の生涯も後者の生き方であり、イエスに従うということの意味を考えさせられます。
 本日の聖書個所に登場する「金持ちの(富める)青年」は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか」(16節)とイエスに投げかけます。イエスは、その問いに対してモーセの十戒の掟を守ること(18節)と答えます。すると、青年はその掟を守っていると自負すると共に、「まだ、何か欠けているのでしょうか」と尋ねます。イエスは、「もし、完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる」と答え、それから「わたしに従いなさい」と命じていきます。
 この富める青年は自分の人生をきちんと生きてきた人のようです。小さい時から律法を守り、おそらく自分で着々と様々なものを獲得し、それを積み上げてきた人だったようです。「永遠の命」を得るとの課題すら自分の手に獲得できるものとして考えていたようです。イエスはそんな富める青年に向かって、終わりなき「足し算する人生」の転換を迫るように答えたのかも知れません。しかし、彼はそのイエスの招きを受け入れることができず、「悲しみながら立ち去って」(22節)行きました。
 マタイの著者は、このやり取りをイエスと弟子たちの対話という形で、「財産」と「服従」の関係を取り上げて論じていきます。イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23節)と解説します。富める者が救いに与ることの困難さを指摘します。それでもなお「信仰とは言わば、ありえざる姿勢の確かさである」(石原吉郎)と言われるように、掴んでいる力を一つ一つ緩めて生きることができればと思います。

(説教要旨/菅根記)

「生かされてある恵」(9/12)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

(テサロニケ第一5章16~18節)

 毎年3月末に挙行される幼稚園の卒園式・謝恩会で、園児たちに聖句をプレゼントします。その聖句が上記のテサロニケ第一の言葉です。「喜び」「祈り」「感謝」の3つを大事に成長していって欲しいことを伝えます。しかも「いつも」「絶えず」「どんなことにも」です。実は結構難しい教えです。使徒パウロの執筆した手紙には、特に「感謝」という言葉がよく用いられます。このテサロニケ第一の手紙だけでも、多くの「感謝する」との表現(1章2節、3章9節など)がでてきます。この手紙にはパウロの生き方を象徴的に示す言葉である「感謝」が繰り返し語られています。
 さて、そもそもパウロが語る「感謝」とはどのような思いで語られているのでしょうか。それは、神の恵という言葉と密接な関係があるものとなっています。聖書では、「感謝」とは、神の私たちへの慈しみ、私たちへの愛、その神の思いや行為に対する人間の基本的な態度、また、応答の心の表現をさして「感謝」といっています。
 旧約聖書においては、神はエジプトの圧政に苦しむ奴隷状態にあったイスラエルの民を解放したという「歴史に働く神」の業が繰り返し語られています。つまり、モーセが率いるイスラエルの民が「出エジプト」の出来事を経験し、荒野の40年を経て「乳と蜜の流れるカナンの地」に導き入れられたという神の約束の出来事に感謝するとの構造をもっています。さらに、新約聖書では「神の慈しみや救いの出来事」と「人の感謝」という応答関係を、イエスの愛の業や赦しの行為の徴である十字架の出来事において、さらに明確になったとの理解を示しています。イエスの生涯と十字架の死に表された「和解の行為」、イエスの「無償の愛」、その恵みに対して感謝するという関係に深められます。
 つまり、パウロの「感謝」の思いの根底にはイエス・キリストの生涯と十字架の死、さらに、復活という希望の出来事の中に示される神の愛の業が横たわっているのです。ここにパウロの「感謝」するということの奥深さがあります。それ故にパウロはどんな境遇においても「どんなことにも感謝しなさいと」と語っています。
 確かに、感謝の言葉は大変美しく、人を繋ぎ関係づける言葉だと言われています。人を生かす言葉です。しかし、現実の私たちの生活の中では、感謝の思いよりも、むしろ不平や不満の言葉を語る方が多いかも知れません。満たされない心を常に抱いて生活を営んでいます。特に、コロナ禍の中で現在と将来に向けての不安が増幅しています。その中で、小さな弱い自己の存在を直視しつつ、イエスの深い愛と和解の業を少し深く見つめていく時、そこに決して自明でない感謝の思いがわき起こってくるのです。

(説教要旨/菅根記)


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