神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築88年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子

<礼拝案内>

主日礼拝
2021年6月13日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第4主日

説 教
「命の言葉を保って」
菅根信彦牧師

聖 書
フィリピ書2章12~18節
詩 編
67篇2~6
讃美歌
21-358、21-536





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「命の言葉を保って」(6/13)

「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」

(フィリピ書2章17節)

 「可愛い子には旅をさせろ」と言う諺があります。頼る者もなく、見知らぬ土地で生きる経験こそが、一人前になっていくことであることを示す言葉です。あるいは、「親元を離れて苦労をなめなければ鍛えられるものではない」との子どもの自立を促す先人たちの処世訓であります。
 さて、キリスト教信仰は、神の前で「自立する」こと、「主体的に生きる」こと、「人間として成熟していく」ことを強く促します。使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、キリスト者として一人立って、日常生活を相応しく歩んでいくための勧告をしています。すなわち、「キリストを模範」として生きることを勧めています。今日の聖書個所2章12節以降はその勧告の最後の部分に当たります。
 この手紙の宛先であるフィリピの教会は、パウロの第2次伝道旅行の時にヨーロッパにおける最初の教会として設立します。この町はギリシア北部の東マケドニア地方に位置する有力な都市の一つでした。この地には金鉱もあり、土地も肥沃で古代より経済的に繁栄していた町でした。ローマ時代には「退役軍人の町」としてローマの直轄植民地となります。
 このフィリピの信徒への手紙は、パウロが第3次伝道旅行中に、エフェソで投獄された際に書かれたと言われています。それ故、別名「獄中書簡」とも言われています。また、パウロが獄中にありながら「喜び」という言葉が頻繁に出てくるために「喜びの手紙」とも言われています。
 本日の聖書個所には「礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても」(17節)という記述があります。ここでは投獄逮捕されているパウロの心境・覚悟が秘められています。しかし、それでもなお「わたしは喜びます」など「喜ぶ」という言葉が続けて4回ほどでてきます。また、キリストへの「従順」(12節)の勧めを読む時、信仰というものは、ある継続した営みが一つの地平を切り開くものだと言うことに気づかされます。「継続の力」「体得していくような力」によって、信仰的自立がなされることを教えられます。さらに、パウロはキリスト・イエスによる「喜び」「従順」こそが「命の言葉」を保っていくと語ります。
 「命の言葉」とは、イエスの語った言葉、生きた姿、十字架の死と贖いと復活の出来事をもって示された福音そのものです。パウロは「よこしまな曲がった時代」(15節)の中にあっても、「命の言葉」を保つことによって、キリスト者が「星のように輝く」と励ましの言葉を語りかけます。小さなことに用いられ、存在を輝かせて生きることが許されている、その「喜び」を抱いて歩む人生を全うしたいと思います。

(説教要旨/菅根記)


「神と向き合う人生」(6/6)

「悔い改めにふさわしい実を結べ」

(マタイ福音書3章8節)

 救い主イエスの先駆者と言われているバプテスマのヨハネの使信は厳しいものです。「先駆者」とは、「他に先駆けて物事をする人」、英語では「パイオニア」、歴史的には「時代の開拓者」と言われます。「先駆者」は必ずといってよいほど多くの困難を背負いながら道を切り開いていく人です。それ故に、旧い勢力から排斥され、迫害され、時に不遇の終わり方をする者がいました。政治の世界・芸術や技術の世界・学問の世界・教育の世界・医療や福祉の世界にも先駆者はいます。宗教の世界では改革を志す「先駆者」はいつの時代にも登場してきます。そして、「先駆者」は、後からくる者・いわば「完成者」「成就者」に道備えをする役割を担って、その使命や役割を終えます。バプテスマのヨハネはまさに不遇の「先駆者」の一人でした。
 本日の聖書個所であるマタイ福音書3章1節の冒頭から先駆者ヨハネの活動が記されています。彼は荒野のヨルダン川のほとりで、悔い改めと罪の赦しを宣べ伝え、そのしるしとしての洗礼(バプテスマ)をユダヤの人々に授けていました。そのために「バプテスマのヨハネ」と呼ばれます。
 このヨハネは、イスラエル民族の預言者的伝統を受継ぐ「宗教改革覚醒運動の指導者」でした。その生活様式(4節)は、明らかにエリヤ(列王記下1章8節)を彷彿させます。そして、イエスの「公生涯」の開始に呼応するように「悔い改めの叫び」をあげます。そして、ヨルダン川で多くの人々にバプテスマを施します。おそらく、ヨハネは当時「エッセネ派」と呼ばれた宗教グループに属していたと言われています。彼らは、「節制・簡素・控えめ」をモットーに、モーセに対して尊敬をはらい、沐浴を行い、清潔を一種の情熱として清めを大事な生活習慣としていたグループでした。そのヨハネからイエスはバプテスマを受けることになります。
 ヨハネは繰り返し「悔い改めよ」(2節・8節)と語りかけます。「悔い改め」は、ヘブライ語で「シューブ」。これは「帰る」という意味から由来した言葉です。イスラエルの民が契約を結んだ神を裏切り、離反した時に、神の許に帰るということこそが悔い改めとなることを強調した言葉です。ギリシア語で「メタノイア」と言います。この語は、まさに方向転換を示すことばです。しかも、単なる人への要求ではなく、信仰によってそれを神が全うする、あるいは、聖霊による神の賜物との緩みをもった言葉となっています。「自分が自分が」という在り方から、神の思いへとそっと心を向ける、神の御心を覚えるという意味です。それは一度限りのものではありません。肥大化する自我の抑制との恒常的な闘いが伴います。それ故に、悔い改めは神と向き合う人生の中で弛まず求められるものなのです。

(説教要旨/菅根記)


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