神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約130名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2019年12月8日(日) 午前10時15分より
【待降節第2主日


説 教 
「主が喜び、望まれること」
飯 謙教師

聖書:詩編147篇1~20節
讃美歌:21-271、21-403







「主が喜び、望まれること」(12/8)

「(主は)馬の勇ましさを喜ばず/人の健脚も望まない。」
                         (詩編147篇10節『聖書協会共同訳』)

 教会暦に従って詩編147編を学びます。この詩編には、アドベントに指定されたテクストらしく、終末思想的な、世の秩序が覆される描写が見られます(6節)。終末は古代ユダヤ社会では、漢字が暗示するような世界の終わりではなく、愛と自由と相互性による新しい世界が神の導きのもとで始まることを思い、それにふさわしい生き方を考える手がかりでした。

 この詩編の序言(1-3節)では、主によるエルサレム建設に合わせて傷ついた人への配慮を述べ、讃美の促しが語られます。2節は捕囚からの解放(前6世紀後半)という、具体的な出来事を想起させます。「再建」と訳された言葉は意訳ですが(直訳は「建設」。聖書協会の新翻訳は「築く」)、後行の「追いやられた人」が捕囚民を連想させるため、捕囚後を背景とする訳文にしたのだと思われます。捕囚後のエルサレム神殿再建は、ユダヤ人の民族主義に結びつきやすいテーマでした。

 第1段落(4-7節)では、主が天体に愛を注ぎ、日常的な価値を逆転されるという終末論の信仰に触れ、讃美を促します。第2段落(8-14節)は、主が天空と大地、さらにそこに生きるものを顧み、やはり世の理を打ち崩すと終末論に言い及び、讃美を呼びかけます。13節には、エルサレム居住者への祝福が観察されます。第3段落(15-18節)は、主が言葉によって世界に働きかけていることを示します。その働きかけは、ひとたびは雪、霜、氷塊、冷たさという、わたしたちには辛く感じられるかたちをとるが、それらは神の言葉によって速やかに溶けさり、本来の喜ばしい姿を現す、と。これは誰もが与ることのできる恵みです。第3段落は直接に讃美の促しを記しませんが、結語(19-20節)は、「掟と裁き」という律法の語彙を並べ、エルサレム神殿の権威主義的なイメージを与えます。

 このように読み進めると、詩編147編は、神の慈しみの対象が、エルサレムという特殊か、それとも天空や大地、そこに住むものなど普遍かをめぐる議論を展開していると思えます。近年、詩編はエルサレム神殿の賛歌集との理解を離れ、連作として読まれる立場が提唱されています。詩編147編以降の文脈を読み進めると、「すべてのもの」が主の喜びのうちにあることが強調され(「息あるものはこぞって」詩150:6)、読み手に一つの回答を提示しています。ここに詩編作者のメッセージがありました。アドベントにあたり、この信仰を心に刻みたく思います。
                                   (説教要旨/飯記)