神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約130名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2019年8月18日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第11主日

説 教 
「神の前に一人立つ」
菅根信彦牧師

聖 書:エレミヤ書5章1~6節
讃美歌:21-361、21-521








「神の前に一人立つ」(8/18)

「よく見て、悟るが良い。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行ない、真実を求める者が」
                                   (エレミヤ書5章1節)

 エレミヤ書の「初期預言」(2~6章)を続けて学んでいきます。エレミヤは聖書の信仰を「人間の奥深い内面を問う宗教」へと転換させていった預言者と言われています。南ユダ王国の滅亡と神殿崩壊、さらに「バビロン捕囚」という時代の中で、信仰を宗教的な儀式や形で捉えない、本当の個人の内面的な在り方を問題とする厳しい視点をもっています。表面的な律法を遵守していくよりも、その律法の本質を心から受けとっているか、その内実を問うのです。民族や共同体の在り方だけでなく、その共同体を形成する一人一人の在り方や生き方を問います。個人の宗教的人格性を問題としていきます。すなわち、「神の前での一人」が問題となっていくのです。旧約聖書学者の浅野順一は、「エレミヤは旧約において人格的な宗教の最初の主張者であったと見てよい」(『預言者の研究』)と語っています。
 本日の聖書エレミヤ書5章は神とエレミヤとの対話の形式で、イスラエルの民の堕落を厳しく批判している個所です。神がエレミヤに対して広場や通りを見て、その中に「本当に神の正義を行い、真実を求めている者がいるのか」(1節)と語りかけるところです。神はもしいるならば「私はイスラエルを赦そう」と語ります。しかし、人間の欺瞞(2節)や神への背き(3節)を見て、また、その言い訳(4節)を考えても義人を見出すことはできないことを認めていきます。背信のイスラエルへの赦しの糸口が見つけられない状況が示されています。神が求める「その一人」がいないことを認めています。
 エレミヤは少なくとも、神はエルサレムに住む全体よりも、個々のその一人が問題であると見てとっていることを示しています。エレミヤはその一人が根本であると指摘するのです。私たちプロテスタント教会の「プロテスタント」の語源には、法的な異議申し立てとしての「抵抗」の意味と同時に「確信」という二重の意味が含まれています。すなわち、「真理に関する証言の行為」という意味です。だからこそ、虚偽に対して、反対し抗議するとなるわけです。そこから、「自由な」「自己責任的人格」としての人間観が形成されてきました。自分の決断で神の意志に応えてそれを実現する者としての人間観です。エレミヤが語る「徹して神の前での一人」との生き方と重なり合うもがあります。
 一方的に流される情報、不当な支配の力が急に襲いかかってくる時代状況があります。「たった一人を求めて赦す」とのエレミヤの語るメッセージを受けとめながら、神の前で一人立つ生き方を大事にしていきたいと思います。
                                    (本日説教要旨/菅根記)