神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約140名の方が出席しています。ゴシック調の築84年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

DSCF3576.JPG神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2018年6月10日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第4主日

説 教 
「主の慈しみ」
岩井健作牧師
聖 書:マルコ福音書 10章17~22
讃美歌:21-355、Ⅰ-312




「主の慈しみ」

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」
                                マルコ福音書10章21節
 「慈しみ」という言葉は、古くから日本の教会では54年版讃美歌312番「慈しみ深き」という歌で、親しまれてきました。「健ちゃん、『慈しみ』を歌ってちょうだい」と言ったのが私の母親の最後の言葉でした。母のそれまでの歩みを思い、涙して歌いました。聖書の中では「慈しみ」は、特に旧約では「へセッド」の訳語として用いられています。この言葉は、「慈しみ、愛、真実、恵み、憐れみ」など多様に訳されていて、神の私たちへの関わりの豊かさを表現しています。心に残るのは、『聖書の風景』でも触れましたが、ルツ記に出てくるルツの姑ナオミが、夫を失った二人の嫁をそれぞれの里に帰す時に、自分に尽くしてくれたことに感謝し「主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れて下さいますように」(1:8)と祈るところです。此の祝福の祈りはルツ記の通奏低音です。此の語は旧約では百回以上も出てきます。特に詩編で用いられています。「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみが伴うでしょう」(詩編23:6)。新約ではマルコ10:21のイエスが富める青年に目を留め「慈しんで言われた」ところが心に残ります。
 私の父親は賀川豊彦に出会って銀行員をやめて伝道者になった人ですが、人生の最後に傍らにいた私に「僕の生涯は恵みであった」と語って天に召されました。恵みも旧約では「ヘセッド」で表されます。
 私ももう人生最晩年ですが、私の歩みを友人大倉一郎さんが「岩井健作の宣教思想と霊性―教会と平和運動の形成」という論文(明治学院大紀要48号、検索可)で纏めてくれました。読んでみて自分の人生が「主の慈しみ」の中にあったことを深く覚えます。若い時代を顧みて、何か自分の所与のもので人生を生きてきたような思い上がりが、歳を取るといたく反省させられます。しかし、イエスが「汝、なお一つを欠く」と言って、富める青年(金持ちの男)の自負を戒めましたが、このことに自らへの戒めを感じつつも、しかしなお、イエスがその青年を「慈しんで」言われたところに救いを覚えます。「主の慈しみ」は、誰ひとり漏れることなく、それぞれに注がれています。「八十路越え 主の慈しみ 講壇に立つ」。「みな共に 主の慈しみ いざ目覚めん」。「慈しみ深き友なるイエスは、かわらぬ愛もて導きたもう」(312 3節)。私たちは、誰ひとり漏れることのない「主の慈しみ」に与っています。ひとりひとりが、「主の慈しみ」に目覚めて、自分に「備えられた」道行きを励んでゆきたいと存じます。祈ります。「主よ、それぞれの人生を、主の慈しみにより祝福して下さい。アーメン」。
(本日説教要旨/岩井記)