<説教要旨>
「わかってほしい!」(8/15)
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」
(マタイ福音書13章49節)
イエスが大勢の人に話しをしているときに、イエスの母と兄弟たちがやってきた。でもイエスの母と兄弟は、12:46「外で立っていた」。なぜか?イエスの家族は、問題行動を起こしている息子、兄を止めさせるためにやってきた。しかし人々がイエスの話に聞き入っている様子に、なかなかス トップをかけられずにいた。ここに集まっている人の多くが貧しい人や罪人とされていた人たち。イエスはそんな人たちとの食事を好んで行った。「正常な」感覚を持ったイエスの母親、兄弟たちは、罪人だらけの家には入らない。イエスは、そんな家族の気持ちが分かった。イエスの言っている内容も行動も理解しようとせず、ただ、家に連れ戻すことしか考えていない。そしてイエスが一緒にいる人々を排除し、そこにいようとしない。
そんな家族に、イエスは幻滅を感じただろう。だから、善意の人が「お母様とご兄弟が外であなたを待ってますよ」と言ったとき、「わたしの母、兄弟って誰のことだ?」と尋ね、「ここにわたしの母、兄弟がいる。だれでも、神の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母だ」と語る。これは、イエス自身の家族への批判。イエスの家族も、エルサレムから来たファリサイ派の人々たちと大差がない。イエスにとっては、家族は彼を縛り付け、不自由にしてしまう場になっている。家族はイエスを「常識」「普通」の世界に閉じこめようとする。イエスが、「神の御心を行う人が家族だ」と言ったとき、そのしがらみから自由になる。血がつながっているから家族だ、とは言えない、むしろ、神の意志を行うことが、真実の意味で家族になりうるのだ。「わかってほしい」と思う人にわかってもらえないさみしさや、つらさを、イエス自身が感じていた。その一方で、家族もまた、イエスに「わかってほしい」という思いを抱いていただろう。血のつながり、血縁によってではなく、「神の御心を行う」ことにおいてイエスの家族になり得る。家族は最初からあるものではない。家族になっていく。家族を自明のもの、あたりまえにしない。家族だから「わかりあえる」のではない。家族であっても、違う人生を生き、違ういのちを生きている別々の人間。家族だからこそ、わかりあえないこともあるし、受け入れられないこともある。家族は「ある」のではない。家族は「なる」もの。わかり合えない、理解し合えないわたしたちが、それでも共に生きる思いをもって、まずはそれぞれの家庭で、身近な場所で、主の平和のために働く者として成長したいと願っている。
(説教要旨/相澤記)