<説教要旨>

「神存在の遠近」(8/8)

「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。」

(エレミヤ書23章23節)

 旧約聖書に登場してくる預言者の職務は、先ず「神の言葉」を伝えることでした。ただし、無条件に「神の言葉」を伝えるものではなく、イスラエルの民の信仰の根本である、ヤハウェの神とイスラエルの民との契約関係が土台となって「神の言葉」が伝えられていくとの特徴を持っていました。その土台があるかないかで、「真の預言者」と「偽りの預言者」との区別がなされていきました。つまり、預言者の職務はヤハウェとイスラエルの民との契約関係を正しく見極め、徹底的に自らもその契約に生きる、民もまた契約に生きることを求めることであったといえます。
 本日の聖書個所、エレミヤ書23章は「預言者に対する言葉」と題する個所です。エレミヤは人間の偽りの問題と正面から対峙した預言者でした。特に、偽りを神の権威によって語る「偽りの預言者」と対決した人でした。近隣大国の勢力下エレミヤが誠実に神の言葉を語ってもそれに耳を傾ける同胞は少なく、多くの「偽りの預言者」たちは「イスラエルは決して滅びない」こと、「未来が開けている」ことを語り、時の為政者に歓迎されました。その孤立する中で、エレミヤは、「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」(27節)、「わたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう」(30節)などと語り、「偽りの預言者」たちを痛烈な神の言葉によって批判します。そこには、エレミヤと「偽りの預言者」たちとの神理解の相違がありました。
 彼らは、神があたかも自分たちと「近い存在」であることを確信していたようです。神を近くに意識していた人々であり、自分たちこそ神に直結していると確信していました。彼らは、自分の側から神の御旨に近づこうとしました。それゆえ、神の御旨と自分の意思とを取り違えるという大きな誤ちを生むことになります。
 一方、エレミヤは神ご自身の方から人に近づいてくれるという理解をもっています。神は人間の指示を受けるような方でなく、むしろ、人間の思い上がりを拒絶する方との理解です。そのような視点からすれば、神は常に「遠くにいます神」であるのです。エレミヤにとって、神は徹底的に人々と共に歩む神(15章15~16節)であり、同時に、人間の要求から徹底的に遠くにいる方(15章17~18節)なのです。そして、このエレミヤの神認識は彼の人生そのものの経験から到達したものでした。彼は、預言者として召命を受けた時以降、神が見えないという体験を重ねていきます。それが、神の召命に応えて生きようとする者がしばしば経験する現実でした。エレミヤは人間的な破れを経験しましたが、彼は再びその神に立ち返ることができました。その時、遠くからの神は、近くの神となったのです。

(説教要旨/菅根記)