<説教要旨>
「罪人を招く主」(7/25)
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」
(マタイ福音書9章13節)
キリストの招きとは唐突に行われていきます。予期せぬ場所、予期せぬ時に招きの出来事が生じるのです。本日聖書日課によって選ばれましたマタイ福音書9章9節からの「マタイを弟子にする」物語もまた、このイエスの招きが唐突に行われ、それに応じていくマタイの姿が描かれております。今回はこの「招き」について共に聖書の言葉から学びたいと思います。
このマタイは「収税所に座っている(9節)」とあるように、当時のユダヤにおいて、支配国であるローマに対して支払う税金を徴収していた「徴税人」の一人であったことがわかります。当時徴税人はユダヤの人々から、異教の国であるローマの手先として、同胞から税を搾り取り、さらには自らの私腹のために過剰な税を要求する者たちであるとして忌避されておりました。経済的に自分たちを圧迫する存在としてと共に、宗教的にも異教の者に仕える存在として「汚れている」とされたのです。また徴税人の中でも、直接民から税を徴収する人々は、その忌避の矢面に立たされ、批難の目を集めておりました。収税所にいたマタイもそのような徴税人の一人であったのです。
イエスはこの徴税人マタイに対してただ、「わたしに従いなさい(9節)」とだけ声をかけられます。そこに何らかの条件や要求はありません。「ただあなたとしてわたしのもとに来なさい」とマタイを招いていくのです。
マタイを弟子にする出来事のすぐ後、10節からには、「徴税人や罪人」と席を共にし、食事をするイエスの姿が描かれます。ファリサイ派の人々はこのようなイエスの振る舞いを批判する意味合いをもって、周りの弟子たちに疑問を投げかけます。このファリサイ派の人々の批判に対してイエスは、ホセア書の言葉を引用し「神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない(13節)」と返答します。これは、儀礼としてのいけにえが定型化していた当時、儀礼を行いつつも異教のバアル等を拝んでいた人々に対して語られた言葉であり、形だけの行いではなく、神自身を知る事、神に立ち帰る事を神は求めているのであるという意味で語られています。イエスはこの言葉をもって、ファリサイ派の人々の律法主義的な振る舞いと価値判断を批判されつつ、神による招きを語られたのです。
イエスの招きには、それと同時に「赦し」が与えられます。そしてまた受容があります。「罪人」として当時人々からその存在を認められず、避けられ、疎まれていた人々にイエスは、「わたしのもとに来なさい」、「あなたはそのままでいいのだ」と「存在」を認め、受け入れ、その立ち帰りの出来事によって赦しを与えていくのです。それは「わたしが何かをしたから」「どんな人間だから」ということには関係がありません。「わたし」が何かをする前に既に与えられた「招き」と「赦し」であるのです。
(説教要旨/髙塚記)