<説教要旨>
「憐みの器として」(7/18)
「神はわたしたちを憐みの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました」
(ローマ書9章24節)
ローマの信徒への手紙はパウロの真筆性の高い7つの手紙の内、最後の手紙と言われています。この手紙は、紀元57年頃、コリントに滞在するパウロが、ローマ帝国東半分のギリシア語圏で伝道を終えた時点で、まだ訪問したことがないローマの教会へ書き送ったものです。彼の福音理解や思想の集大成ともいうべき内容をもっています。パウロはまだ見ぬローマの教会に宣教する道が開かれることを願いつつ、教会の様々な伝承や告白などを用いながらこの手紙を書いています。当時の通俗哲学の「問答形式」(ディアトリベー)を駆使しながら様々な論議を進めています。
このローマ書の構成は「信仰による義」という初代教会の中心的な教義(1〜8章)が前半部分で語られ、その後に「ユダヤ人の躓き」の問題(9~11章)を取り上げながら「神の救済の歴史」をローマの教会の人々に伝えようとします。さらに、12章以降では、教会の具体的な問題を扱った倫理や実践的な勧告がなされています。このようにローマ書は概ね3部の構成になっています。
本日の聖書個所である9章19節以降は第2部に当たります。先行する9章前半では、誰が神の約束の担い手であるかという問題が議論され、イスラエルによるアブラハムの子孫としての救いの継承は決して変わらぬものではなく、神の自由な主権によって常に新しく「選び」と「拒絶」を繰り返し中断するものであること(6~13節)が語られています。さらに、神の憐れみが神の自由な権能に基づくものであることをモーセに対する神の告示(出エジプト記33章19節)を引用して説明(14~18節)します。
これを受けて、19節以降「神の選びの問題」を深めるために、イスラエルの民の約束は反故にされてしまったのか、あるいは異邦人のものになってしまったのかとの不安や疑義を想定して論述していきます。結論的に言えば、神の自由な選びはイスラエルの民を越えて「ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24節)と語ります。続けて15節では旧約聖書ホセア書2章25節を引用して神の自由な創造力を強調しています。さらに、32~33節では律法を追い求めたユダヤ人の躓きについて語ります。それゆえに、神の選びが異邦人へと広がっていったことを伝えています。
神の選びは行いや業績、地位、名誉などで測れるものではありません。まして、血族的な伝統で継承されるものではありません。ただ、神の憐れみによるものです。神の憐れみの器として、神の招きがあったことを日々、感謝して歩んでいきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)