<説教要旨>

「祈りは聞き届けられる」(7/4)

「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

(マタイ福音書7章11節)

 続けて「山上の説教」を学びます。イエスが山に登られ弟子たちと群衆に向かって語りかける「山上の説教」は、古来より「人類最高の倫理」と言われてきました。アウグスティヌスは「キリスト者の生きる上での物差し」と言っています。しかし、その解釈は様々です。ルター、カルヴァンの宗教改革以降、「山上の説教」の示す倫理は「遂行不可能である」との主張があり、負いきれない委託と使命であるがゆえに、人間はそこで「自らの限界」を知るのであると、人間の「罪深さ」を示すものとして、また「悔い改めの倫理」として受けとめられていった歴史があります。その解釈は遂行可能かどうかを含めて多岐にわたっています。それだけ、この教えの厳しさが分かります。しかし、同時に歴史上の人物に大きな影響を与えた教えであると言えます。
 本日の聖書個所は、「山上の説教」の終わりの部分です。読者に対して一つの決断を迫るように言葉が命令調になっています。「人を裁くな」(1節)「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」(7節)、さらに「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)との「黄金律」が示され、私たち人間の側からの積極的な神への働きかけと徹底的な愛の実践が促されています。弛まざる人間の継続した業が求められています。
 その厳しい語り口の背景には、マタイ福音書の書かれた80年代の教会の状況がありました。70年のローマ軍による都エルサレムへの徹底攻撃と神殿の崩壊。その後、神殿を失ったユダヤ教徒は律法によって民族のアイデンティティーを再統一するために、律法遵守の徹底化をはかります。具体的には、キリスト教との選別、差別化、キリスト教徒への迫害という事態が起こっていきます。そのために、徹底した律法遵守を要求するユダヤ教に対して、教会はさらに「愛の律法」を貫くことでユダヤ教を乗り越えていこうとします。「復讐してはならない」(38節)「敵を愛せ」(43節)の勧めも然りです。
 しかし、このような人間の完全性、持続的な求めの行為の要求は、先行する神の圧倒的な慈しみが前提となります。「あなたがたの天の父は求める者に良い物をくださるにちがいない」(11節)との神への信頼が、私たちを「キリスト者への完全」に導こうとしています。少なくとも、祈り願いながら、求め続ける中で、私たちは、内面から溢れ出るような神の恵みの「一瞬」に出会うことができるようです。神の無償の愛に励まされて、諦めずにイエスの求める招きに応えていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)