<説教要旨>
「あなたを照らす光」(12/27)
「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」
(イザヤ書60章1節)
今回の聖書箇所であるイザヤ書60章は、三部に分けられる中の第三部、「第三イザヤ」と呼ばれる箇所の中に収録されています。「第三イザヤ」に収録されている記事の執筆者や執筆時期は同一人物、同時期ではありませんが、基本的には、バビロン捕囚からの解放以後であると考えられています。また、それらが編集され、一つの書としてまとめられたのは、大体紀元前5世紀末であると言われております。
紀元前538年、バビロン捕囚として異国の地にて、半世紀を超える生活を経たユダヤ人たちは、キュロス王の勅令によって祖国への帰還と神殿の再建を許されました。ユダヤの地へと戻った民もすぐに神殿を再建しその信仰のよりどころを取り戻したかというとそうではありませんでした。荒廃した地での生活の逼迫や、ユダヤ残留民やサマリア人との対立、妨害によって、一度は中断に追いやられ、紀元前515年にやっと第二神殿が完成いたします。それでも、それまであった神殿再建、さらには神殿を中心とする新しい救済の時代の到来という熱い期待は、夢破れる形となってしまいます。このような時代背景の中でこの「第三イザヤ」では、「民族とは無関係に、ただ主に信頼する者が救われる」という信仰を示していきます。
本日の箇所、60章1節からでは、特徴的な部分として「光」があげられます。冒頭の1節でまず「起きよ、光を放て」との宣言がなされます。そしてそれに続いてすぐ「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と語られていきます。冒頭の「起きよ」との言葉は、原語の意味をとれば「立ち上がる」あるいは「積極的な行動」との意味合いがある言葉です。捕囚後、ユダヤの地へと帰還した人々が見たのは、荒廃した地であり、さらには、苦しい生活という現実でした。うずくまり、座り込んでしまうそんな現実は、2節で語られる「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という状況であったことであると思います。しかし、それでも、「起きよ、光を放て」との宣言がなされるのです。さらに「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と語られるように、主の救いがそこにあることを示していくのです。この宣言は、主の救いを約束するだけでなく、「救いの主を信じて、立ち上がってまっすぐ進みなさい」との力強い励ましの宣言であるのです。
このコロナ禍、閉塞感によって、暗闇に閉ざされるような思いを持ちながらも、このような時だからこそ、主によって進むべき道が照らされていくことを信じ、この歩みを進めていきたいと思います。
(説教要旨/髙塚記)
「世の光イエス」(12/20)
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福音書1章4節)
ヨハネ福音書の序文(プロローグ)は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)との「ロゴス賛歌」で始まっています。「言」という語をもって、イエスの生涯と十字架の死、つまりイエスの存在を書き始めています。この「ロゴス賛歌」はヨハネの教会以前に伝えられていた賛歌・讃美であって、この賛歌をヨハネ福音書の著者が、加筆編集してできたものであると言われています。
「言」と訳されている語は、ギリシア語で「ロゴス」と言います。それは「定義」「理性」「評価」「論理」という意味も持っています。それをラテン語訳聖書では「言葉」と訳しました。ここで語られる「言」は≪the Word≫と言われるような「唯一の言」という意味で用いられています。福音は確かに神の「言」であり、しかも、「初めに」とあるように、神の「言」はすべてのものの根源と根拠を示すものであったと言います。その意味では、創世記1章の「天地の創造」冒頭部分である「神は言われた『光あれ』こうして光があった」との記述と類似しています。このように、聖書の言葉(ダーバール)は、言語的な意味だけでなく、「事柄」「出来事」という意味も含んでいます。
ヨハネ福音書は、創世記の冒頭の言葉同様に、初めに神の意志があった。この意志は神と共にあり、神そのものであったと語ります。そして、「万物」すなわち「この世」は神の意志によって創造されたと、神の意志である「ロゴス」を先ず讃えています。しかも、「言の内に命があった」(4節)と語ります。「言」「命」「光」の3つのキーワードで救い主イエスのこの世に遣わされた意味を語ろうとします。
言葉である神の意志は、人間を生かすものであり、それによって人は生きることができるという思いが強調されています。しかも、その命こそ、キリスト・イエスであり、その命であるキリスト・イエスは「世に来てすべての人を照らすのである」(9節)と告げるのです。
「光」と言えば、羊飼いが夜、野宿していた時に主の天使が近づき、「主の栄光が回りを照らした」(ルカ福音書2章9節)という言葉を思い出します。それはパウロのダマスコ途上での回心の場面も同様ですが「畏れの光」です。しかし、ヨハネ福音書は「すべての人を照らす」と強調しています。私たち共同体が直ぐに内と外を分けるような「ここまで」という枠を壊し、自分だけという闇を打ち砕き、出会いの喜びへと、わたしたちを導いていくのです。世の光であるイエスは、私たちの内面の罪を深く照らすと同時に、自分の枠を打ち破る多くの人との出会いの喜びを教えてくれるものであるのです。
(説教要旨/菅根記)
「来るべき方を見つめて」(12/13)
「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人の事だ。」
(マタイ福音書11章10節)
アドベント第3主日を迎えました。本日の聖書個所は、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが弟子を遣わしてイエスに「来るべき方はあなたでしょうか」(3節)と尋ねる物語です。領主ヘロデとヘロディアとの結婚を巡っての批判(14章3~5節)により、マケロスの要塞に逮捕・監禁されている最中の出来事でした。それに対して、イエスは「目の見えない人は見え・・」(5節)と終末論的な視点をもって自身の救い主としてのこの地上での使命を語ります。この物語は、イエスによって預言の成就(イザヤ書29章18節以下参照)をみた原始教団の伝承のようです。
ヨハネは、おそらく厳格な宗教改革運動を展開するエッセネ派と呼ばれた宗教グループに属していたと言われています。本拠地は死海に近い荒野のエンディケにあり、規律化された共同生活を営んでいたことが分かっています。生活は簡素、仕事は農業を主体にした共有財産制度、独身主義を貫き「節制・簡素・控え目」を原則として、沐浴を行い清潔を一種の熱情としていた人たちでした。その指導者の一人がヨハネであったようです。また、彼は民衆からは預言者エリアの再来(3章4節参照)と考えられていました。
このバプテスマのヨハネの存在について、イエスはある評価をしています。イエスは彼をこの世において「最も偉大な者」(11節)と理解しつつ、天の国では「最も小さな者」であるとして、イエスとヨハネの本質的差異を暗示します。ヨハネはあくまでもイエスの先駆者であり、道を備える者であることを示しています。それは同時に、「ヨハネの時まで」と「イエスの時から」の違いを語り、「神の国」の確かなる到来を告げる先駆者であることを強調します。
しかし、その新しい時代を告げるイエスは、先駆者ヨハネも共に民衆には受け入れられないことを暗示します。それは当時の子どもによって歌われた民謡や子どもの遊びにもあるように、「笛を吹いて」の婚宴ごっこ、「弔いの歌」の葬式ごっこをしようとしても無視されてしまうことを告げています。その描写は比喩的で、ヨハネの禁欲主義的(倫理的)生き方も、イエスの自由奔放的(福音的)生き方の両者とも拒否されていくことを予想させます。イエスは「今の時代」(16節)の様相を子どもの遊びの比喩から語り、「拒絶の時代」とも言うべき人々の状況を示します。
この厳しい状況の中で、私たちが語る神に関する証しは拒絶され、無視されるかもしれません。しかし、なお神から出る知恵は事実の証言(2~5節)として真理を示します。そこに希望を抱き、「来るべき方である」救い主イエスを迎え入れる心備えをしていきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)
「歌え、主に、新しい歌」(12/6)
「主は諸国の民を公平に裁かれる・・・主は・・・真実をもって諸国の民を裁かれる。」
(詩編96篇10,13節)
主イエスの誕生と再臨を覚えるアドベント第二の主日を迎えました。教会暦に示された詩編96篇を学びます。冒頭の「新しい歌を歌え」は、詩編で他に5箇所見られる有名なフレーズですが、これについて研究者はイザヤ書42章10節がオリジナルだと述べます。第二イザヤのテクスト(イザヤ書40~55章)です。この人は紀元前6世紀中頃、バビロン捕囚の後期に活動を始めました。人々が共同体崩壊の現実に慣れ、緊張にも緩みが生じていました。この預言者は終末論のロジックをもって時代と向かい合おうとしました。
終末は、この漢字から連想されるような破滅を意味する概念ではありません。神による新たな世界への認識でした。前提にあったのは、神が元来は人が愛し合いながら形成されるよう願って創造した世界を、人が主我主義によってゆがめたという見方です。人々は、神がこのような情態を放置せず、世界を秩序づけ新たにするため、もう一度この世に到来すると信じました。そのとき、人が営々と積み上げ、神の意図をゆがめてきた自分に都合のよいシステムや常識は覆される、と。こうして終末論は聖書の信仰の中で、人に真に重要なものを問う論理として機能しました。第二イザヤは、それを思い起こせと力説したのです。その訴えが「歌え」と、自身をさらけ出す表現をとったことは興味深く感じられます。
この作品で終末をもっとも強く印象づけるのは11~12節の、天、地、海、野、森への呼びかけです。日常の世界で、これらが何か応答をすることはありません。この世の価値が全てではない、ということが念頭にあります。研究者は古代イスラエル人がこの作品を「秋の新年祭」で用いたと考えました。それは神との契約を更新し、新しい時代に生きる決意をするときで、キリスト教会でアドヴェントが教会暦のサイクル開始の時期に置かれていることと重なる気がします。13節「主は来る」は来臨の待望を学ぶこの季節にふさわしい詞です。
では、どのような想いをもって待つのでしょうか。13節「主は…地を…世界を…諸国の民を裁く(シャーファト)」がヒントとなります。新共同訳では10節にも「裁く」(ディーン)が書かれていますが、原語は別です。10節のディーンは法廷用語で、「処罰」という意味合いが強い語です。13節の語も法廷用語ですが、ある研究者は用例からその原意を「守る、救う」と解します。多くのユダヤ人は神は異邦人を罰し、ユダヤの民を守ると信じ込んでいました。13節の「裁く」が続く詩編98篇9節にも書かれていることを考慮すると、詩編の編者は、異邦人を罰するという96篇の原作に、神が全ての人を救うと語る13節を加筆し、読者に意識の転換を促していると思われます。
(説教要旨/飯記)