<11月説教要旨>

「目を覚ましていなさい」(11/29)

「人の子は思いがけない時に来るからである。」

(マタイ福音書24章44節)

 本日より新しい暦の初めである「アドベント・待降節」に入ります。主日ごとにローソクが灯され、4本目のローソクが灯された週にクリスマスが訪れます。アドべントという言葉は、ラテン語のアドヴェニオー(advenio)を語源にしています。「到着する」「突然起こる」というような意味に用いられます。そこから、「到来」「接近」という意味がでてきます。アドベントは人間の姿勢としては「待つ」ですが、事柄としては救い主であるイエスの「到来」の出来事を示しています。
 さて、本日の聖書個所を含むマタイ福音書24~25章は、イエスの最後の説教といわれているところです。エルサレムの神殿、あるいはオリーブ山でイエスが語られたという設定になっています。この世の終末はどのようにして来るのか。また、その時をどのように待つのかという内容が語られています。25章には「十人のおとめの譬え」「タラントンの譬え」や「羊と山羊の譬え」の物語が展開されていますが、その前段階として24章が置かれ、イエスが世の終わりである「終末」について語るとの設定になっています。それは、イエスが再び来たるセカンド・アドベントである「再臨」の約束ともなっています。
 初代教会では、このようにイエスの宣教活動、十字架の死、復活の出来事によって始まった救いの業が、世の終わりの時に、イエスの勝利に満ちた「到来」によって完成すると考えられていました。しかも、比較的早い段階で終末は来ると信じられていたようです。しかし、その終末が遅れる、「終末遅延」の問題は初代教会に大きな影響を与えたようです。「終末遅延」は日常的な信仰の緩みを生じさせ、教会内に緊張感を失った状況を生みだしていたのかも知れません。だからこそ、「目を覚ましていなさい」(42節)の言葉が何回となく強調されています。
 このマタイ福音書の終末の到来を待つ個所は、マルコ福音書13書である「小黙示録」を土台にマタイ独自の伝承資料をもって、独自の見解を打ち出しながら編集されたものです。マルコ福音書の「目を覚まして」(13章37節)はどちらかというと、救いの到来への期待を込めたニュアンスを持っています。他方マタイ福音書は、審きに合わないようにとの厳しさが強調されています。そこには、ローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊という現実の歴史があり、厳しい迫害の嵐の中にあるマタイの教会の状況があったと考えられます。私たちも、眠ってしまう弱さを抱く自分を見つめ、また社会の現実を見つめながら「目を覚ましつつ」イエス降誕の出来事に思いを馳せつつ、アドベントを過ごしていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)


「必要な糧を願う祈り」(11/22)

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

(マタイ福音書6章11節)

  本日の聖書箇所、マタイ福音書6章は、5章から始まる山上の説教の中で語られるイエスの教えの一つであります。そして6章5節からの「祈るときには」という小見出しがついた箇所は、イエスが弟子たちに対して祈りの言葉を教えた箇所、今日の私たちも、礼拝の中で祈る、「主の祈り」のもととなった祈りを教えられた箇所として有名です。この祈りの形式は元をたどればユダヤ教の伝統的な祈りにつながるものでありますが、しかし、その伝統的な祈りと比べるとイエスの教えた祈りは異質さを持っております。
 この祈りの伝承はルカ福音書11章2節からのところにも並行箇所があり、よりオリジナルの伝承を保存しているのはこのルカの伝承であると言われております。ルカの記載によれば、祈りの初めの神への呼びかけは「父よ(パテル)」との簡潔なものになっています。ここで使われる「父よ」とは元来アラム語で「アッバ」という単語が用いられる言葉で、父親に対して愛情、愛着をもって呼びかける時に用いられる言葉です。この呼びかけが用いられることによって、イエスは、神とはそうして親しみをもって、また親へ信頼を向けるように、心の内の願いを伝えることが許される存在であるということを教えているのです。そしてここで教えられる祈りとは、短い言葉で語られながらも、そのような全幅の信頼を寄せる神に対してわたしたちの生きる道を、その歩みをゆだねていく、そんな祈りであるのです。この言葉の短さもまた、8節に語られるように「父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という信頼の表れであるのです。
 この祈りの中でも11節の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」との言葉はまさに、日々の生活に直結する願いであります。「糧」と訳される「アルトン」というギリシア語は元来「パン」という意味を持っております。しかしこの「アルトン」は聖書の中では食物としての「パン」を指す以外に、人が生きるうえで必要な恵み、神の支えや守り、導きなども含めて用いられる単語です。この祈りは、私たちが日々生きるための必要が神によって備えられるという信頼を表す言葉なのです。そしてその信頼を言葉にするとき、この祈りは願いであると同時に、備えてくださる神を覚え、たたえ感謝する言葉となるのです。
 飽食の時代などと言われ、有り余る食べ物が当たり前のように感じてしまう現在でありますが、しかしそれは、決して当たり前ではありません。ふと目を向ければそれが当たり前でない現実が多くあります。このコロナ禍にあってさらにそれを感じさせられます。日々生きるのに必要なものを与えられることに感謝する気持ちを大切にしつつ、また、恵みを分かち合う思いをもって歩みを進めていきたいと願います。

(説教要旨/髙塚記)


「響く声を追って」(11/15)

「すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』」

(使徒言行録10章15節)

 当時、ユダヤ人から見た異邦人は差別の対象となっていました。特にローマ人はイスラエルを支配する絶対的な悪として敵視されていました。コルネリウスという人物はたとえ信心深い人であっても、ユダヤ人から見れば異邦人に変わりはありません。そして、それはペトロも例外ではありません。
 そのペトロのもとに声が響きます。あらゆる獣や地を這うもの、空の鳥が目の前に現れ、それを食べよと言うのです。しかし食物規定上ペトロはそれらを食べることを拒否します。しかし、声の主はそれらを受け入れ、食べなさいの一点張りです。その直後、コルネリウスの使者がペトロのもとへやってきます。あの声が告げたあらゆる生き物たちは、ペトロが関係を持とうとしない異邦人コルネリウスのことを指していたのです。コルネリウスの願いは、神の「声」を通してペトロへと届けられたのです。
 私たちは「声」という言葉に注目していきたいと思います。「声」はギリシア語で「フォーネー」という言葉が使われています。この言葉の第一義的な意味は「音」や「響き」です。声も言うなれば音や響きです。神の声や音はあらゆる被造物を通して私たちに響きます。
 それは、神が声によって天地を創造したからです。私たちは神の声、神の音によって創造され、その音を宿している存在だと言うことができます。また、私たちの発する音が神の響きとなることがある、と言うこともできます。神の声によって創造されたすべての被造物の中に、神の声が響いているのです。そして反対に誰かの叫びは、神の声となって私たちにも届けられるのです。
 ペトロが聞いた声は、彼がこれまで聞こうとしていなかった人々の願いや叫び声でした。罪人だから、異邦人だから、とその人々の声に耳を傾けてこなかったペトロに、神が代わってその人々の声を届けたのです。その声を、音を聞くことによって共に生きるべき隣人が目の前に立ち上がってくる。ペトロはそのような経験をしたのでした。
 大地の叫び、人々の願い、被造物を通して響く神の音に耳を傾けていきたいと思うのです。その音は思っているより近くで響いているかもしれません。私たちは自分の声でいっぱいになることが多々あります。しかしそのような時にこそ神は私たちに本当に聞くべき声を響かせています。ペトロも自分のことで頭がいっぱいだった放心状態の時に、その声を聞きました。あらゆる場所、あらゆる被造物を通して響く神の声を追って、その声を聞き続ける者でありたいと願うのです。

(説教要旨/石田記)


「存在の美しさ」(11/8)

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」

(マタイ福音書6章28節)

 誰でもが「思い悩まざるを得ない日々」を生きています。子どもの育児・教育に関して、仕事や日々の生活を続けることに関して、さらに、老いや健康に関してなど、私たちは様々な悩みや重荷を負って生きています。特に、コロナ禍の中で、明日というものが見えない不安な毎日を過ごしている方々がいるかと思います。そのような状況下にあって、なお生きることの指針を明確に示しているのがマタイ福音書の「山上の説教」(5章~7章)です。
 そのイエスの語る説教の中で「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(6章33節)の言葉は、他人にとって代わることのできない私自身への鋭い問いかけとなっています。ここで指摘される「神の国」(バシレイア)とは「神の愛が充満する世界」と言えるものです。そして、神と人が相応しく向き合う「義」の関係を生活の中でただしながら、神の御旨を求めて歩みなさいとの勧めとなっています。この「神の国」と「神の義」をひたすら求めて生きることを促すイエスの教えは、人間の最高の生き方を示す倫理として、峻厳さをもったものとなっています。
 しかし、この厳しい勧告は、「思い悩むな」(25節)という勧めの展開の中で語られていることに注目したいと思います。個々の生き方が厳しく問われる前に「神への信頼」への招きが譬えをもってなされていることに大きな励ましを受けます。そこには、「空の鳥をよく見なさい」(26節)、「野の花がどのように育つか注意して見なさい」(28節)とのイエスの語りかけがでてきます。「働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とイエスは宣言します。この譬えに代表される神の創造の業の讃美、そして神への信頼は、人間の真実に触れるように心に染みてきます。イエスの自然観が豊かに表明されています。イエスは今生かされている一人ひとりの命の尊厳、「今、生かされている命」への気づきを諭しています。そこには、重荷や患いを負って生きざるを得ない私たちへのイエスの優しい眼差しがあることに気づかされます。
 このイエスの言葉は、当時のユダヤ教社会に生きる人々の価値観からすれば、驚くべき事柄であったと思われます。自然の小さな命の営みに眼差しを注ぐイエスの姿は、この世の価値基準からすれば最も小さな者、弱い者、無為なる存在が最も大切にされる(32節)という神の愛そのものを示しています。私たち自身の存在を慈しみをもって見つめられていることに気づかされるのです。

(説教要旨/菅根記)


「慈しみは主のもとに」(11/1)

「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。」

(詩編130篇6節)

 人間の心を純化させ、切実な言葉として表現されるのが「祈り」と言われています。祈りは人間と神との内面的な交通手段であり対話です。祈りは、あらゆる宗教に見られる現象ですが、「祈りは宗教の核心部分である」と言えます。「人間」という言葉は、ギリシア語では「アンスロポス」と言います。「上を仰ぐもの」という意味です。人間は「神を見上げる存在」との意味で用いられてきました。古代ギリシアの人々は、「人間とは上を見上げながら、天を仰ぎながら祈る存在」であると規定しているようです。
 人生を振り返れば、私たちは幼い頃より何かしらの願いをもって、神に向かって祈り、願いつつ成長してきたのだと思います。人生の岐路に立ったとき、抜きさしならない状況の時に立たされたとき、人は自然と祈りをささげるものです。ただ「助けて欲しい」というだけの祈りの時もあるかも知れません。「神様なぜ」という神への懐疑を抱くときもあったかもしれません。しかし、いずれの時も人は天を見上げます。愛する者を失いそうな時も、人は幾たびか祈りをささげていくはずです。そして、おそらく、人生の終わりに至るまで、私は「かくありたい」「こうありたい」「そうなさしめ給え」と祈って歩んでいく存在が人間であるのです。
 本日の聖書個所である130編の詩人は、その冒頭で「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と語り始めます。絶望の淵に立たされて喘いでいるような思いが発せられます。「深い淵の底」とは、「黄泉の世界」とも解釈されますが、命と光の源泉である神と断絶した世界を示します。あるいは、人生を歩む上での苦難、絶望の状態、神が本当に遠い存在としてしか思えない状況への比喩です。
 しかし、詩人はその深い淵より、神に向かって最後の突破口を求めようと「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして」(6節)と語り始めます。「待ち望む」とは本来の意味は「ピンと張った命綱」とのことです。山を登る際のザイルの意味がその語源と言われています。自分の力を捨てるとき、自分を神に明け渡し委ねるとき、神の側から深い淵に近づきザイルが投げ込まれるように、約束の言葉が投げかけられるとの信頼をこの詩人は強くこの詩に込めているのです。
 しかも、「慈しみは主のもとに」(7節)とあるように、神の愛と恵みと真実は深い淵に佇む私たちに無償に注がれていく希望を語ります。それは、キリスト・イエスの十字架の死と復活において明確にされたことでもあります。私たちは生きるにしても死ぬにしても神の永遠の愛に包まれているのです。

(説教要旨/菅根記)