<10月説教要旨>

「神と共に、私たちと共に」(10/25)

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」

(箴言8章22節)

 今週より教会暦において「降誕前節」といわれる時期に入りました。週報の表記では「降誕前第9主日」となっております。これまでの半年間は「教会の半年」と呼ばれ、「聖霊降臨」の出来事より、私たちの生きる現代まで、教会の業が、宣教の業がつなげられてきたことを覚える期間でありました。今週からは、イエスの誕生の時を覚え、その記念の時を迎えるための「備えの時」に入ります。この「降誕前節」では、よく創造の出来事から預言までの旧約聖書の物語が取り上げられ、その初めの時から今につながる救いの出来事を思い起こす時とされています。本日は、「降誕前節」、その初めの週ということで、聖書日課によって与えられました、箴言の言葉から共に考えていきたいと思います。
 箴言は、旧約聖書の中の、律法・預言書・諸書の中で、「諸書」に分類される書物で、さらにその中でも「知恵の書」と呼ばれるものです。「箴言」と名付けられていますが、「教訓」や「戒め」となる言葉との意味を持ちます。この「教訓」や「戒め」は訓言として記されたり、詩として詠われたり、様々な方法で記されております。これらはイスラエルの宗教の中で、またその民族の歴史の中で積み上げられてきた経験から与えられた「知恵」であります。この「知恵」とは、まさに「生活の座」、現実を生きるうえで必要な教えとして大切に、伝えられてきたものであります。「神と共に生きる民族の「生活に根差す知恵」、「神と共に生きる者の知恵」であるのです。
 本日の聖書箇所である箴言8章は、知恵者「ソロモン」の名によって記された言葉です。実際の執筆者はソロモンではなく、バビロン捕囚後の時代を生きた人々であるといわれております。この箇所で特徴的なのは「知恵」が擬人化されて描かれている点です。8章1節には「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」との言葉から始まり、そして4節より「わたし」として「知恵」の勧めが語られていきます。
 本日お読みいただいた箇所である22節からでは、天地創造の出来事がモチーフとされ、語られております。そこで「わたし(知恵)」がその初めから神と共にあったことが示されます。そして、その「道」を神と共に造り上げていったことが語られていきます。さらにその後、31節に「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と続きます。初めの時から「神と共に」あった「知恵」はその後も「人と共に」あることが示されているのです。そして、32節の「さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」との言葉によって、わたしたちと共にある知恵が示す道を歩み、知恵と共にある神のその道を歩んでいくことを勧めるのです。

(説教要旨/髙塚記)


「神の深い知恵」(10/18)

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

(ローマ書11章33節)

 ローマの信徒への手紙は、使徒パウロの福音の中核である「神の義」を主題としてそれを壮大な構想のもとに彼が論述したものです。その内、9~11章は「イスラエルの躓き」の問題が取り上げられています。パウロは「神の義」(1章18節~4章25節)と「信仰の義」(5章1節~8章39節)の真髄を踏まえて、また、「兄弟」であり同胞であるイスラエルの躓きについて深い心の痛みの中で、不信の意義、福音の秘儀、救済史の意味を解釈し説明しようとします。
 つまり、「義を求めなかった異邦人が信仰による義を得たのに、選ばれた民イスラエルは義の律法を求めたのに、その律法に達しなかったのはなぜか」(9章31節)と問いかけ、パウロは、イスラエルの民が「神の義を知らず、自分の義を求めた」(10章3節)ことを指摘します。信仰によってではなく、行いによって義を得ようとしたイスラエルの民の躓きを語ります。しかし、パウロはその躓きにも意味があることを強調します。すなわち、神は「ご自身の民を退けたのではなく」(11章1節)、頑なにされた多くのイスラエルの民の躓きが、「かえって異邦人に救いがもたらせる結果になり」、さらに、「ねたみを起こさせるためであった」(11章11節)と語るのです。イスラエルの罪が「世の富」となり、失敗が「異邦人の富」となる、そして最後には皆救いにあずかるとすれば、どんなにか素晴らしいかとパウロは神の計画である救済史を説くのです。
 そして、異邦人に対しては「野生のオリーブ」(11章17節)と称し、接ぎ木された存在であり、根から豊かな養分を受けるようになったからと言って、折り取られた枝(イスラエルの民)に対して誇ってならないことを勧告します。さらに、頑なになったイスラエルの民の救済の確信を、神の富と知恵と知識の深さを讃えて論述を終えようとします。その締めくくりが本日の聖書個所です。
 パウロは、異邦人キリスト者に対して「自分を賢い者とうぬぼれない」(25節)こと、そして、異邦人全体が救いに至ったときにこそ全イスラエルの救いが始まるという、神の計画という「時」の問題を提示します。救われるはずの者が救われずに、救われるはずのない者が先に救われる、従順と敬虔を求められた者が不従順と不敬虔の者となるような、人間の知恵を遥かに超えた逆説的な出来事をパウロは語り、最後は神への賛美と頌栄で論述を終えるのです。それは、パウロ自身の信仰的現実を示したものとなっていま。すなわち、罪と呻きの中で苦悩する自分が福音によって生まれ変わらせられたという出来事と、さらに、信仰生活を歩む中で起こる艱難や苦しみを抱きながら、終末的希望に、過去も現在も未来も包まれているという彼の喜びの表明であるのです。

(説教要旨/菅根記)


「恐れを越えて」(10/11)

「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」

(マタイ福音書10章16節)

 マタイ福音書の著者は10章全体を主イエスが弟子たちを宣教活動のために派遣するにあたっての訓告を語るという形に編集しています。弟子たちの前に迫害と苦難が立ちはだかり、宣教活動が容易で順調な道のりでないことを予告し、その厳しい現実の中でもひるむことなく信仰を告白していくことを励ましています。特に、前節の冒頭には「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ。だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)とのイエスの言葉が記されています。この句は15節までの「弟子の選任と派遣」の命令を総括すると共に、どのように現実を乗り越えていくかの指示を導入するためのつなぎとなっています。
 ≪蛇≫は創世記の創造物語では「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も狡猾であった」(創世記3章1節)とあるように知恵に富む生き物の代表。しかし、誘惑や悪用の危険を伴う存在。≪鳩≫は純真と柔和のしるし(雅歌2章11節)。しかし、愚鈍のたとえにも使われる存在。イエスは弟子たちに、蛇のような鋭敏な判断力と、鳩のような清純なる心情を備えるようにして弟子としての苦難の道を歩むことを促します。しかし、弟子たちがただ自分の力でこれを克服することを望むのでなく、神から来る「聖霊」(20節)を信頼して臆することなく歩むことを勧めています。
 本日の聖書は、苦難の道を歩む中でなお、苦難を恐れて沈黙し妥協するのでなく、ひるまずに信仰を告白するように語っているところです。この単元では「恐れるな」(26.28.31節)という言葉が三度繰り返されています。そして、恐れる必要のない理由として、①「隠れているものが現わにされる」(26~27節)こと、②「魂を殺すことのできない者どもを恐れる」(28節)必要がないこと、③最も小さなものを漏らすことのない神の配慮がある(29~31節)ことを挙げています。マタイ福音書の著者は、神のみを恐れ、同時に神の配慮があることを述べて弟子たちを激励します。
 私たちの信仰の歩みは、神との人格的な交わりの生活と言えます。その交わりは「神からの呼びかけ」と「私たちの応答」によるものです。もちろん、その逆もあります。神の配慮やはからいを信じて生きることは、その配慮を受けたものとしての感謝の応答的決意が求められます。そこには、多少なりとも苦難が生起し、惜しまず生きることが促されていきます。破れと躓き多いものですが、イエスの十字架の出来事にある真実さに心を響かせていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「満ちたりた恵み」(10/4)

「集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」

(ヨハネ福音書6章13節)

 幼児に話す聖話「お弁当をささげた子ども」との導入部分を紹介します。
 「とてもよいお天気の暖かい気持ちのいい日です。空には小鳥がピーチク、ピーチクとさえずり、野原には、綺麗な花がたくさん咲いて、山には緑の木や草が一ぱい生えていました。ヨハネさんは、朝早く起きて、窓から外をながめていましたが、『こんな日に山に登ってながめたら、町や村や湖や川や森や畑が見えて、きっと楽しいだろうな。そうだ、山へピクニックに行こう。』と思いました。『お母さん、ぼく山へピクニックに行きたいの。お弁当を作ってちょうだい』『ピクニックに行くの。はいはい、お弁当を作ってあげましょう。』しばらくして、お弁当が出来上がりました。『お弁当はパン五つと、お魚が二匹よ。気をつけて行ってらっしゃい。遅くならないうちに帰ってらっしゃい』『はい行ってきます』ヨハネさんはお母さんに作って頂いたお弁当をもって、うれしそうにでかけました。ヨハネさんが山の近くまできますと、大勢の人たちが山の方へ登っていきます。ヨハネさんは山の上で何が起こったのか不思議に思い、『おじさん、山の上で何があるの』と、そばを通る人に尋ねてみました。『イエス様が山の上でお話していらっしゃるんだよ』「ああ、イエス様、僕イエス様が大好き、僕もお話を聞きに行こう」ヨハネさんは嬉しくて駆けていきました。・・・」(高野勝夫著『幼児に話すイエス様のお話』キリスト教視聴覚センター)
 この聖話に入る前に、著者は本文解説の中で、「この五千人を養われたパンの奇跡物語」について解説しています。すなわち、「このパンの奇跡物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書いずれにも記されている唯一の物語である」こと。そして、「幼児の聖話としてヨハネ福音書の物語を取り上げたのは、イエスが五千人を養われた基いとなった五つのパンと二匹の魚は子どもがささげたものだからである」と解説しています。
 少年の献げた「大麦のパン五つと魚二匹」は、僅かなもの、小さなものを象徴するものです。それはいったい何の足しになるかと問わざるを得ないような非力さを示すものでした。無きに等しいものです。そのパンと魚をもっていた少年も非力さの象徴的存在です。しかし、その時、イエスは「人々を座らせ」(10節)、差し出されたパンを「取り」「感謝し」「分けあたえ」(11節)ます。魚も同様にします。イエスの祝福が群衆を満腹にし、さらに、食べ残ったパン屑が「12かごいっぱいになった」と記されています。このパンをさくイエスは「主の晩餐」の姿とも重ね合わせることができます。イエスは私たちを常に喜びと祝福へと招く方なのです。   

(説教要旨/菅根記)