<8月説教要旨>

「神はあなたを見捨てない」(8/30)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」

(ヨハネ福音書8章11節)

私の証の言葉も合わせ、本日の聖書日課のメッセージとして話します。今日の聖書日課から共に聴きたいと思います。この箇所は、括弧で括られており、多くの聖書学者はこの記事はヨハネ本来のものではないと考えています。内村鑑三は、「ここに、イエスの人となりが、明らかに描き出されている。(中略)これを全福音の縮写としてとして見ることが出来る。」と書いています。また、w.バークレーも注解書で、「福音書の中で、最とも美しく、最も大事な物語である。」言っています。ヨハネは、イエスとは誰なのかと言う問いを随所に発していますが、この箇所もその意味でここに組込まれたのです。
 受難週の出来事です。ここに律法学者たちとファリサイ派の人々が登場して来ます。そこに姦通の現場で捕まった女を連れて来たのです。彼らは、モーセの律法にはこの女は石で殺せとあるが、どう思うのかと訊きました。イエスが殺せと言えば、律法に従えば、普段のイエスの言動からほど遠いことになります。また当時ユダヤを支配したローマ帝国への反逆との誹りを受けます。逆に打ち殺すなと言えば、モーセの律法を否定することになり、しかもこの女を赦すと言うことは、ユダヤ共同体感覚を逆撫ですることになります。絶体絶命の窮地に追い込まれたのです。イエスは地面に何かを書いて沈黙されます。
 イエスの沈黙は、この女性の心の呻きに共合わせたと思います。「あなたは誰からの愛されず、全ての人から見捨てられたのですね。でも私はあなたの横にいます。もし石が投げられ、死んでも私は共にここにいるからね。私は見捨てないからね。」との呻きを共にしたのです。
 イエスは再度言います。「罪を犯したことのない者から石を投げよ」と問いました。そして全ての者が立ち去ったのです。英語で「ゆるし」は、re-missionです。再び-遣わすとの意味です。人間を生かし、再生することがゆるしです。
 この女性は、失敗しました、罪を犯しましたが、イエスのゆるしはもう一度立ち直りなさい、歩き始めなさい、との思いが滲みあれています。「行きなさい。」の言葉にイエスの祈りが籠められています。最後にヨハネによる福音書6章37節を読んで終わります。    

(説教要旨/阿部記)


「神の畑、神の建物」(8/23)

「大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です」

(コリント第一3章7節)

  今回の聖書箇所、コリントの信徒への手紙一は、パウロが第二伝道旅行の際に、約1年半という長い間滞在したコリントの共同体にあてられたものです。このコリントは経済・文化・宗教の点で豊かな生活を営む都市で、ギリシアと東方の思想が結ばれる場所であったといわれています。さらにはアドリア海とエーゲ海の二つの海に面した二つの港を持つ交通の要衝として商業的に重要な都市であり、そこには多種多様な人々が行きかい自由な空気の支配する文化的中心地でありました。そのような土地柄もあり、また、ローマから追放されてこの町に来ていたアキラとプリスカというユダヤ人キリスト者との出会いによってパウロのこの地での宣教は大いに成功しました。パウロはコリントを離れてからもこの共同体に対して、責任を持ち、手紙などのやり取りを続けていました。この第一コリント書もそのうちの一つです。
 コリントの教会はパウロが離れたのちも大いに成長したようです。しかし、その中で、ただ順調に問題なく歩みを進めることが出来たかというとそうではなかったようです。共同体内で様々な問題が起き、それに対して手紙を送るなどして、パウロの知恵を求めていました。この手紙や、人づてからの情報により、パウロは筆をとり、自らの神学に基づいて言葉をつづりました。
 今回の箇所で取り上げられている問題は、共同体内にいくつかの分派が出来、また自らの知恵を誇る者たちが現れているというものでありました。このようなコリントの教会の人々に対してパウロは、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人(3節)」であると諫めます。また、「ある人が、「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすればあなたがたはただの人にすぎない(4節)」と語ります。この世的な価値判断によって派閥を作りどちらが優れていると語る人々に対してそうではないと語っていきます。パウロは、自分やアポロが自らの力によって、皆を導き、信仰に入れたのではなく、ただ神が自らを用いて、その業をなされたと主張していきます。「成長させてくださったのは神です(6節)」との言葉は、その過程に誰の手が入っていようが、今信仰に入れられて、その道を歩むことが出来ているのは、神によるものであるということを明確に示すものです。
 自らの知恵を誇り、その力によって多くをなせると思い込んでしまう弱さを持つ人。しかし、それぞれの分に応じて、この地上で神の業を実現していくためにそれを用いてくださるのは神です。それぞれに出来ることに違いはあれど、神はそれぞれに必要を見出し、用いてくださるのです。それを忘れず驕りを捨て、神のために力を合わせて働くことがここで勧められているのです。

(説教要旨/髙塚記)

「イエスの時、私たちの時」(8/16)

「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」

(ヨハネ福音書7章6節)

  イエス時代、ユダヤ教三大祝祭と言えば、それは「過越祭」「五旬祭」そして「仮庵祭」でした。本日の聖書個所であるヨハネ福音書7章以降の「イエスの兄弟たちの不信仰の物語」は、この「仮庵祭」を間近に控えた時期の物語として場面設定されています。この祭りは、もともとは農耕的祝祭であった言われています。オリーブ、無花果、葡萄など果実の「収穫感謝の祭り」でした。イスラエルの民は、この祭りに自分たちの歴史的な意義を加えていきます。すなわち、出エジプト後の荒れ野放浪の天幕生活を覚えていくものとして再解釈していきます。この祭りの間、人々はエルサレム巡礼を含めて、家々の屋上や広場で葉のついた枝で小屋を作り、そこで7日間寝起きしていきます。つまり、仮の庵で時を過ごし神の導きを覚えて感謝する、これがイエス時代の「仮庵祭」の姿でした。もちろん、神殿では犠牲が捧げられ、水汲みの儀式や夜ごとの祭典が行なわれていきます。歴史学ヨセフスは「ユダヤ人にとって、最大の祭りとは言えないが、最も大衆的な祭りであったことは確かである」とその特徴を指摘しています。
 イエスの兄弟たち(ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン)は、この「仮庵祭」にイエスが参加し、「自分を世にはっきりと示しなさい。」(4節)と語ります。祭りという大衆の熱気と興奮が渦巻く場所で、イエスに御業を行なうように勧めます。兄弟たちはこの「仮庵祭」こそ、イエスが世の舞台にたち、多くの弟子を獲得する「時」であると判断するのです。この兄弟たちは「イエスを信じていなかった。」(5節)と記述されているように、祭りへの参加には別の思惑があったようです。
 しかし、イエスは「わたしの時はまだ来ていない」と語り、兄弟たちの勧めを拒絶します。イエスとって、自分がこれから成し遂げようとする十字架の死は、まだその時でないとの理解を強調します。イエスの受難と十字架の死は、神のみ旨が成就する「一回の時」であることを示します。イエスの兄弟たちは、救い主(メシア)としての数々の「しるし」を公然の場で行なえばメシアとしての証しが立つはずであるとの人間の知恵からくる「時の設定」をします。しかし、イエスは、徹底的に自己を虚しくして、十字架に向かう「神の時」(13章1節参照)を見定めます。私たちは「いつか」「いつでも」と都合の良い時間を生きようとしますが、イエスは神の定められた時を見つめていきます。そして、そのイエスの十字架の贖いの死に私たちの救いがあるのです。どのような時の捉え方をしていくかが問われています。

(説教要旨/菅根記)


「なくした!見つけた!一緒に喜んだ!」(8/9)

「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

(ルカ福音書15章10節)

 この食事の時、イエスの周りにいたのは徴税人や罪人。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスを批判。これは、裏返せば「もうわれわれの仲間じゃない」と言っているのと同じこと。彼らは自ら人と人とを分断し、壁をつくって自分たちの正しさや清さを守っていた。
 そしてたとえ話。100匹の羊…これほどの羊を所有するのは、裕福なお金持ち。「羊飼い」は所有者ではなく、羊の飼育の責任を負っている人たちだ。番をするときは決して1人ではなく、少なくとも2~3人で一緒に仕事をする。 羊飼いが「その一匹を見失った」という事件が起きた。勝手にいなくなったのではなく、羊飼いに責任がある。羊飼いは必死に見失ってしまった羊を探しに出かける。そして羊を見つけた喜び、羊も羊飼いも無事に帰ることが出来たなら、喜びは二倍となる。
 続く「無くした銀貨のたとえ」で、女性がなくしてしまった「ドラクメ銀貨」は、デナリオン銀貨と同等の価値がある。1デナリオンは、労働者の1日分の給料だ。一枚の銀貨はとても価値のある、大切なものだった。羊飼いが,羊の管理に責任を負っていたように、当時の女性は家の中のことに大きな責任をもっていた。だから羊飼いが羊を必死に探すように、羊同様の価値のある銀貨を、必死になってさがしたのだ。ランプを灯すほど必死だった。貧しい庶民の家は、ほとんどが一室だけの家で、窓は高いところに一つだけ。家の中は暗かった。オリーブ油で灯すランプで、周囲を照らす。
 羊飼いも、この女性も、必死で見つかるまでさがす。羊飼いにとって羊が、女性にとってそのお金が、かけがえのない大切なもの。だから一生懸命にさがす。見つけたら喜ぶ。羊飼いも、この女性も、神さまをイメージしている。このたとえ話が示しているのは、羊飼いのような過酷な労働の現場に神がおられる、女性の日常的な働きの場に神はともにおられる、ということ。そして羊飼いとなって羊を探しまわり、女性となって無くした大切な銀貨を探しまわる。苦労してさがしものを見つけたら、友達や近所の人を集めてパーティーを開く。助け合っていたし、助け合わないと生きていけなかったのだ。だから、うれしいことがあったときも、一緒に喜びたいと思った。このたとえ話が、徴税人や罪人と一緒に食事をするイエスを、宗教的権威を持つ人たちが批判する場面から始まっているのは、非常に象徴的だ。イエスは、今一緒に食事をしている徴税人や罪人こそが、神さまが必死に探して見出した、大切に羊であり、銀貨だ。今彼ら彼女らと食卓を共にして、一緒に喜んでいる。神がわたしたちを喜びの場に招いている。わたしたちは喜びの食卓に招かれている一人一人。神は、「一緒に喜んでください」と、わたしたちを招く。そこには、イエスが共にいる。わたしたちは、一緒に喜ぶ者として招かれているのだ。

(説教要旨/相澤記)


「信じること、生きること」(8/2)

「なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」

(ローマ書14章10節)

 多数派が少数派を批判し軽んじていく。そして、排除していくという関係は極めて現代的な問題です。多数決による民主主義でも少数意見に耳を傾けることを忘れていくと制度は形骸化します。しかも、問題は教会で、このような「少数者」が疎まれていくという現実です。「神を信じる」と言う敬虔な行為と、現実に「少数者が疎まれていく」という矛盾をどのように考えるかが問われています。
 さて、ローマの信徒への手紙14章を読むと、「信仰の弱い者」、おそらく、この人々は少数者であったと思われますが、その人々が多数者から疎まれていく。そんな現状が浮かび上がってきます。その現状の中で、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と命じます。もちろん、信仰に「強い」「弱い」があるわけではありません。ただここで、パウロは福音理解の受容の相違を「強弱」で表現します。「弱い人」とは、「野菜だけを食べる人」(2節)、「特定の日を重んじる人」(6節)すなわち、ヘレニズムの異教的信仰の影響をもっている「菜食主義者」、あるいは「禁欲的な信仰理解」に立っている信者を指していると考えられます。他方、「何を食べてもよいと信じている人」、すなわち、様々な習俗や因習から自由となった多数の人々がいたことを予想させます。そして、この両者が互いに、立場の違いを越えて共存できなかったところに、ローマの教会の問題がありました。
 この自由な「強い人」に対して、「弱い人」を「軽蔑」してはならないと、パウロは勧めます。そして、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」(7節)と当時の教会で唱えられていた「信仰の告白」を引用し、イエスを主と信じ告白する者たちが、なぜ教会の仲間を疎んじるのかと問いかけます。「神を信じること」と「日常の具体的な人との関わり」の在り方を再考することを促しています。
 このような教会内の人間関係から生じる福音理解の違いによって、人を軽蔑したり、排斥することは、時代を超えた問いとなっています。また、このような出来事を見ると、神を「信じる」ということと、自分の行為を自覚的に見つめて「生きる」ということの隔たりを感じます。信仰の姿には、「顕在化した信仰」と「潜在化した信仰」の二通りがあります。前者は自覚的な信仰の姿が常に問われる在り様ともいえます。
 パウロは、交わりの危機にあるローマの教会の人々に「一人一人が神の前に立つ存在」(12節)であることを促します。それは、「神を信じる」ことと、「神の御旨を求め生きる」こととが分離しないこと、すなわち、両者を繋がりをもって捉えていく自覚的な信仰を取りもどすことを促しています。

(説教要旨/菅根記)