<7月説教要旨>

「助け求める叫び」(7/26)

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

(マタイ福音書14章27節)

 本日読まれました聖書箇所マタイによる福音書14章22~33節の冒頭、22節の所で、イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗せ湖へと送り出していきます。「強いて」と表現されているのは、弟子たちの思いを覆して無理にその場を離れさせたということをあらわしています。この「強いて」という言葉により、この物語が前の箇所に記される五千人給食の奇跡物語とつながりがあることが示されます。イエスによる奇跡が行われ、その場にはイエスやその周りにいる弟子たちに対する称賛、賛同が満ちていたことであろうと思います。自分たちを受け入れてくれる、認めてくれる場所から離れていくということで、弟子たちは不安やおそれを抱いたことであると思います。現実の社会の中で、神、そしてキリストを信じながらも、その存在とのつながりを強く感じることが出来ず、時としてその信仰が揺らぎ絶望してしまいそうになる。人とはそのような弱さを持っているのだと感じます。そしてその弱さは今回のテキストにも明確に示されているのです。
 明け方ごろ、まだ薄暗かったであろうその時間にイエスは湖の上を歩いて弟子たちの下へと向かわれます。近づいてくるイエスのことを弟子たちは見て、すぐにはそれがイエスであると気づくことが出来ず「叫び声(27節)」をあげます。そんな弟子たちに対してイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない(27節)」と呼びかけてくださいます。この言葉は旧約聖書に記される神顕現において神の存在におそれおののく人間に対して神によって語られる言葉と同義のもので「共にある神」という姿が表されます。
 ここで「叫び」と訳されている言葉はギリシア語で「κραξω(クラゾー)」でありますが、この言葉は「聖霊の切なる訴え」という意味合いをもって、ヤコブの手紙5章4節やガラテヤの信徒への手紙4章6節に用いられている言葉です。弟子たちやペトロが恐怖の中で神に対して霊の内から切に助けを求めていく。そしてそれに対してすぐに助けの御手が伸ばされる。これは現実の困難にあり、苦しみ救いを求めて叫び声をあげている人間の声を神は聞き届けるということを示しているのであります。
 弱さという罪を持つわたしたちが出来ることと言うのは神に対して切に助けを求めて叫び声をあげていくことだけなのであります。そして、その切なる叫びは必ず聞き届けられ、救い出されていくということが本日の聖書のメッセージに語られているのです。「心の底」、「内なる霊」より出る「切なる叫び」をもって、神の救いを求める姿勢を聖書から学びつつ、イエスの励ましと慰めに支えられながら新たな一週間の歩みを進めてまいりたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)

「死から命に移る」(7/19)

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく死から命へと移っている」

(ヨハネ福音書5章24節)

 7月の主日礼拝から、頌栄21-24番「たたえよ、主の民」と21-27番「父・子・聖霊の」を小さく口ずさむ程度に讃美するようにしました。神戸教会では長くこの2つの頌栄が主日ごとに会衆によって讃美されてきました。讃美歌21では、頌栄は24番から29番まで続きますが、いずれも「三位一体の神」をほめたたえる内容となっています。グロリア・パトリ(小栄光唱)とも呼ばれています。 
 頌栄がたたえる「三位一体の神」とは、「神」と「キリスト」と「聖霊」とが切り離なしがたく結びついて一体をなしていることを示します。新約聖書は私たちにイエス・キリストによって真の神を知らされることを告げています。その神をイエスは「父」と呼んでいます。そして、イエスを「子なる神」と信じて告白しています。さらに、仲保者イエス・キリストによって、神とキリストの霊が私たちに遣わされています。このように、私たちに現れる神は3つの働きをもっており、私たちは「創り主なる神」「み子キリスト」「助け主なる聖霊」という3つの側面(神学的には位格)をもつ神を信じてたたえています。
 さて、本日の聖書個所は、「神」と「キリスト」の働きが一体であることが強調されています。「イエスの業」が「父のなされる業」と表裏一体であることを示しています。また、神がキリストを愛して全権を委ねていることが表現されています。そして、イエスは終末における「審き主」としての権能を授かっていることが明言されています。つまり、イエスの言葉を聞き信じることは、神を信じて生きることと同等であることが語られています。
 さらに、二回目の「はっきり言っておく」(24節)とのフレーズの後では、「永遠の命を受ける者」とは誰であるかが問われています。その問いに、イエスは「わたしの言葉を聞いて信じる者」であると断定します。つまり、イエスの言葉に耳を傾け、ただキリスト・イエスに自分を結びつけ留まり続ける人であると語っています。
 ところで、「信じる」ことに至るには、第一に「見て信じる」(合理性)、第二に「考えて信じる」(理想的論理)、と第三に「感じて信じる」(想像力)という道があると言われています。しかし、ヨハネ福音書は「聞いて信じる」という道を示しています。私たちはイエスの教えや業を通して与えられた人格的な言葉を受け入れ、そこから神の御旨に想い巡らして何らかの応答を決断するように聞くことが求められています。
 イエスの言葉に傾聴し、心を開いて信じ受容れる時、人は「死から命に移っている」と「今すでに」そうであると証言しています。イエスの言葉に生かされ、真実な生を求めていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「立ち帰れ、主のもとに」(7/12)

「わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」

(ホセア書14章5節)

 本日の聖書日課の個所であるホセア書は、「12小預言書」の中の1つで、最初の記述預言者アモスに続く時代のもので、時代を越えて私たちに預言者たちの信仰を豊かに伝えている預言書の一つです。ホセアは、紀元前750年ごろから722年まで、北イスラエル王国で活躍した預言者です。
 イスラエルは統一王朝を形成したダビデ王・ソロモン王の統治の後、紀元前926年に「エルサレムを中心とした南ユダ王国」と、「サマリアを中心とした北イスラエル王国」の二つに分裂します。その内の北イスラエル王国は紀元前722年に大国アッシリアに滅ぼされていきます。この北イスラエル王国が滅ぼされる前、ヤロブアム2世という王が約40年間北王国を統治します。この時代は経済的にも繁栄していきます。ホセアはこの時代、繁栄の中で北イスラエルの民、特に「支配階級の人々」がヤーウェの信仰から離れていく様子を見て厳しい言葉で叱責します。
 「宗教生活の乱れ」すなわち、生きていくための「価値観や倫理観」が崩壊していくイスラエルの民の様子に、彼は大きな危機感を持ちます。そして、その崩壊の原因をカナンの土着の神である「バアルの神」へ傾斜していったところに見いだします。農耕の神・豊穣の神である自然宗教であるバアルを崇めていく。偶像崇拝へと向かう信仰の在り方をホセアは厳しく告発(4章1節)します。また、当時最強の大国アッシリアを頼み、最強の武器である軍馬(軍事力)の力を借りて強くなろうとしていきます。彼は自分の手が作った者を神と言わず、大国により頼むことを救いとは言わないことを訴えます(4節)。
 ホセアは、ただ悔い改めて神に帰ることを促します。それは、多くの預言者たちが語る信仰の要諦です。人は知らず知らずに自己肥大し、自分の考えを絶対化していきます。そして、大国に挟まれたイスラエルは現実の厳しい状況と手放すことができない繁栄に目を奪われて自分たちの原点を忘れていきます。しかし、なお、神は「背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」(5節)ことを誓われます。ここに、神の深い愛(ヘセド)が示されていきます。神は常に主イエスを通して、より鮮明に憐みを示して、私たちの立つべきところがどこであるかを問いかけてきます。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」、常にこの言葉を心をとめて、人生を歩むべきコンパスとしていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)


「十字架の意味」(7/5)

「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊しました」

(エフェソ書2章14節)

  「実にキリストはわたしたちの平和です」との印象深い言葉がエフェソ書2章に語られています。「平和」は、ヘブライ語で「シャーローム」。この意味は、第1に「戦いのない状態」を指します。また、第2に「人間が生きる上での尊厳が保障される状態」を示します。また、イスラエルの民は日常の挨拶として、隣人への祈りとしてこの言葉は用いてきました。さらに、長くイスラエルの民が求めてきたこの「平和」の概念に、エフェソ書の著者は、キリスト・イエスにおける愛、すなわち、人間の罪や愚かさを贖う十字架の和解の働きを加味して「平和」というギリシア語である「エイレネー」という言葉を用いています。そして、イエスの愛の中で、私たち自身も「新しい人」(存在)になり、「二つのものを一つにする」和解の働きに参与していくことを促しています。
 エフェソの著者は、神と私という個人の救いや平安だけを説くのではなく、神の救いと赦しが与えられた者の生き方を示しています。キリストによる「平和」は、力によるものではなく、他者への屈服ではなく、イエスご自身の和解の働き抜きにはありえないことを強調しています。この「和解」(アポカタルラスセイン)という言葉はもともと「顔なじみでない友人たちを一緒にする」との意味です。つまり、イエスの十字架の贖いという働きによって一つとなることができることを示しています。
 また、逆にこの「平和」を脅かすものとして、対極にあるものとして「敵意」という感情を取り上げています。「平和」を作り出す根源的な行為である「和解」は、「敵意」という感情をどのように抑えていくかが大きな関心事となっていることが分かります。「敵意」とは対立する相手を倒そうとする思いを言います。相手を敵として憎む心を言います。相手が個人である場合には「反感」「憎悪」「拒絶」そして「憎しみ」などに転化していきます。また、相手が共同体や国や民族の場合は「偏見」「差別意識」「敵視」そして「排除」という破壊的な力となって現れます。その最たるものが戦争でしょう。現在、世界中がこの「敵意」に覆われているかのように排外的な力が働いています。
 先月6月23日は沖縄戦から75年を刻んだ「慰霊の日」でした。「平和の礎」の刻銘者は24万人1953人に上ります。当日追悼式で読み上げられた平和の詩・高良朱香音さんの「あなたがあの時」は、戦争体験を語り続けた人たちの言葉に自分を重ねて、その方々への感謝と「決して失われてはいけない平和の尊さ」を静かに熱く語られたもので、心に響くものでした。イエスの十字架の出来事に自分を重ね平和を創り出す者へと押し出されていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)