<説教要旨>
「心のともし火を絶やさず」(6/27)
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」
(マタイ福音書6章22節)
「目は人の眼」と言う諺があります。目は大事な器官であると同時に、その人がどんな人物であるかは目に現れるという意味です。その他、「目は口ほどに物を言う」との諺があります。このような目と心の関係を伝える言い伝えはたくさんあります。目は生きた情そのものを正直に伝える喩えとして古くから様々な格言や諺があります。
本日の聖書個所であるマタイ福音書6章22節には「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなた方は明るい」とのイエスの言葉が残されています。また、逆に「濁っていれば、全身が暗い」と書かれています。目と心の関係や人間の精神性について語っています。特に、「目が澄む」という言葉に注目したいと思います。「澄む」とは曇らない、濁らないとの意味です。また、「健全な」「正常な」「純真な」との意味が加わります。あるいは、「分裂しない一つの心」という意訳ができます。つまり、心で思っていることと、その人の生き方が違わず一つであるということです。
当時のユダヤ教世界では、「目が澄む」とは宗教的人間の模範的特徴を示すものでした。イスラエルの民にとって、それは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4~5節)との生き方を貫いている人を指していました。「目」はヘブライ語で「アイン」と言います。泉という意味があります。これは単なる視覚的な機能を指すだけでなく、心の目を含めて人間の在り様を示しています。充実した人生を謙遜に生きる人、幾度かの人生の苦難を乗り越えた人、他者のために自分の身を削って生きる人などの目は、美しく輝いて見える時があります。幼稚園では脇目を触れず外に遊んでいる子どもの目は、命が溢れているように見えます。
イエスは心と目の関係を「山上の説教」(マタイ福音書5章~7章)において語っていますが、その冒頭の至福の祈りの中で「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(8節)と祝福の言葉をかけています。ここでも目と心の関連で絶対者であり創造者である神との関係における人間の在り方を示しています。しかし、当時のマタイの教会では神への信仰の応答としての「施し」「祈り」「断食」の行為(6章1~18節)が、偽善に満ちたものになり、自分の行為を誇張するようなものになってしまっていたようです。マタイ福音書の著者は日常における「自己形成の問題」として、「神の国と神の義」を求める私たちに、「目の在り様」を譬えに、心と生き方がかけ離れないように生きることを勧めます。神と向き合う人生の習慣を大切にしていきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)