<説教要旨>

「神と向き合う人生」(6/6)

「悔い改めにふさわしい実を結べ」

(マタイ福音書3章8節)

 救い主イエスの先駆者と言われているバプテスマのヨハネの使信は厳しいものです。「先駆者」とは、「他に先駆けて物事をする人」、英語では「パイオニア」、歴史的には「時代の開拓者」と言われます。「先駆者」は必ずといってよいほど多くの困難を背負いながら道を切り開いていく人です。それ故に、旧い勢力から排斥され、迫害され、時に不遇の終わり方をする者がいました。政治の世界・芸術や技術の世界・学問の世界・教育の世界・医療や福祉の世界にも先駆者はいます。宗教の世界では改革を志す「先駆者」はいつの時代にも登場してきます。そして、「先駆者」は、後からくる者・いわば「完成者」「成就者」に道備えをする役割を担って、その使命や役割を終えます。バプテスマのヨハネはまさに不遇の「先駆者」の一人でした。
 本日の聖書個所であるマタイ福音書3章1節の冒頭から先駆者ヨハネの活動が記されています。彼は荒野のヨルダン川のほとりで、悔い改めと罪の赦しを宣べ伝え、そのしるしとしての洗礼(バプテスマ)をユダヤの人々に授けていました。そのために「バプテスマのヨハネ」と呼ばれます。
 このヨハネは、イスラエル民族の預言者的伝統を受継ぐ「宗教改革覚醒運動の指導者」でした。その生活様式(4節)は、明らかにエリヤ(列王記下1章8節)を彷彿させます。そして、イエスの「公生涯」の開始に呼応するように「悔い改めの叫び」をあげます。そして、ヨルダン川で多くの人々にバプテスマを施します。おそらく、ヨハネは当時「エッセネ派」と呼ばれた宗教グループに属していたと言われています。彼らは、「節制・簡素・控えめ」をモットーに、モーセに対して尊敬をはらい、沐浴を行い、清潔を一種の情熱として清めを大事な生活習慣としていたグループでした。そのヨハネからイエスはバプテスマを受けることになります。
 ヨハネは繰り返し「悔い改めよ」(2節・8節)と語りかけます。「悔い改め」は、ヘブライ語で「シューブ」。これは「帰る」という意味から由来した言葉です。イスラエルの民が契約を結んだ神を裏切り、離反した時に、神の許に帰るということこそが悔い改めとなることを強調した言葉です。ギリシア語で「メタノイア」と言います。この語は、まさに方向転換を示すことばです。しかも、単なる人への要求ではなく、信仰によってそれを神が全うする、あるいは、聖霊による神の賜物との緩みをもった言葉となっています。「自分が自分が」という在り方から、神の思いへとそっと心を向ける、神の御心を覚えるという意味です。それは一度限りのものではありません。肥大化する自我の抑制との恒常的な闘いが伴います。それ故に、悔い改めは神と向き合う人生の中で弛まず求められるものなのです。

(説教要旨/菅根記)