<4月説教要旨>

「再びの出会い」(4/26)

「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」

(ヨハネ福音書21章7節)

 ヨハネ福音書の復活のイエスと弟子たちの出会いの描写はルカ福音書に記される、イエスと弟子たちのはじめの出会いの描写を彷彿とさせるものです。夜通し漁をして何も捕れなかったペトロ達に対して、イエスがもう一度網を下すように言う。そして引き上げてみるとそこには網が破れそうになるほどの魚がかかっている。イエスが現れた時点では弟子たちはそれがイエスだということがわかっていませんでした。復活物語にはよくある描写です。弟子たちの心が神に対して、またイエスに対して閉ざされてしまっていることによって、目の前にいるのがイエスだと気づくことが出来ないのです。しかしこの再びのイエスとの出会い、奇跡との出会いを経験した弟子たちは目の前にいるのがイエスだと気づくのです。ペトロはイエスだということに気づくと、すぐに上着を着て、湖へと飛び込んでいきます。舟が陸につくまでの間を待っていることも出来ないほどにペトロは急いでイエスの下へと向かうのです。何をおいてもイエスの下へ、そんな思いに駆られてペトロは行動を起こしていったのです。そして、陸へと戻ってきた弟子たちとも合流したのち、イエスの促しに従い、イエスと食事を共にするのです。イエスは、パンと魚を取って弟子たちに渡していきます。これは生前のイエスと弟子たちが何度も共にした食事の風景であります。その時点ではもはや誰も「あなたはどなたですかとは問いただそうとは(12節)」しません。自分たちを招き、教え、導いたイエスが、「主」が今共にあることを弟子たちは「知っていたから(12節)」であります。弟子たちは一度はそれが恐怖や迷いによって見えなくなってしまいました。しかし、再びのイエスとの出会いによって、奇跡との出会いによって、立ち戻らされて、改めてイエスという存在を、自らの原点ともいえる存在を知らされていくのであります。そして、14節「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と語られます。イエスはくり返し弟子たちと出会われていくのです。
 私たちもこの現代において、聖書を通してイエスと繰り返し出会わされています。その出会いにより神の愛に気づかされ、また悔い改めの思いが与えられています。それは復活のイエスと出会った弟子たちと同様にであります。私たちも弟子たちと同じようにイエスという「原点」が与えられ、新たな命、新たな歩む道が与えられて、聖書の言葉を通して問いかけ続けられております。「あなたならどう生きるか」「どう歩むのか」。聖書の言葉に聞き、イエスとの「再びの出会い」を「繰り返しの出会い」を与えられつつ、その問いかけに応えていくことが出来る歩みを進めていきたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)

「深みに触れる信仰」(4/19)

「見ないのに信じる人は、幸いである」

(ヨハネ福音書20章29節)

 新型コロナウイルス感染防止のために兵庫県に「緊急事態宣言」が出されて1週間が過ぎました。何よりも、感染で苦しむ方々の回復と、医療従事者・インフラのために働く方々の健康が守られますように祈ります。在宅での生活・勤務が続き、様々な不安、ストレス、閉塞感を抱く毎日です。それこそ、魂が閉ざされていくような気分を感じます。そして、「絶望感」「孤独感」が心を支配していきます。
 さて、ヨハネ福音書では、イエスの十字架上での処刑という最後の場面を迎えた時、弟子たちは散らされ、意気消沈して部屋で隠れるように「魂を閉ざされていった」様子が描かれています。しかし、同時に、気落ちした弟子たちが、確かにイエスの復活の出来事を契機に再び立ち上がっていく様子が描かれています。もちろん、弟子たちの再起は一変になされたのではなく、「信じては疑い、疑っては信じる」という一進一退の歩み(21章付加文書参照)であったことを告げています。
 本日の聖書個所は、復活のイエスがエルサレムで「ユダヤ人を恐れて」(19節)隠れていた弟子たちに現れる「イエス顕現物語」です。「魂が閉ざされていた」弟子たちに、イエス自らが家に入り「あなたがたに平和があるように」(19節・20節)と励まします。また「私はあなたがたを遣わす」(21節)と命の息を吹きかけて派遣命令を出します。
 しかし、その場にいなかったディディモ(双子の意味)と呼ばれるトマスは、イエスの十字架の傷痕に自分の指を入れなければ、復活したイエスを「わたしは決して信じない」(25節)と言い張ります。そこに、再びイエスが現れ傷痕を見せ、そのイエスの働きかけに、はじめて「わたしの主、わたしの神」との告白に至るのです。
 さらに、ヨハネ福音書は、この物語の最後の言葉として「見ないのに信じる人は幸いである」と記述し、このイエスの言葉を本書のまとめとします。すなわち、見える現実だけが、神の愛や慈しみを表すものではないことを強調します。そもそも、「人格」や「人間性」というパーソナリティーは本来見えないものです。しかも、人はある存在、その人格の大きさや「深み」に支えられて、私たちは信頼を抱いて生きることができるのです。特に、神の存在は人間にとって究め尽くすことのできない「深み」を持ちます。そして、人はその「深み」に支えられて、実は信じるということが始まっていくのです。「閉塞感」が高まるこの時期、人格的な「深み」の次元でイエスに出会い、希望に生きる者になりたいと思います。この営みこそが復活に生きることではないでしょうか。

(説教要旨/菅根記)

「最も大いなる希望」(4/12)

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」

(マタイ福音書28章10節)

 イースターおめでとうございます。新型コロナウイルス感染症拡大による「緊急事態宣言」が出された中でのイースターになりました。教会学校は休校、二つの付属幼稚園は休園状態ですが、皆様の健康と安全が守られますようにお祈りいたします。そして、主に在って朽ちることのない命によって、私たちの生の根底が支えていることに希望をもって共々に歩んでいきたいと思います。
 さて、主イエスの葬りは、慌ただしく行われていきました。安息日が迫る中で丁寧な埋葬もされず、復活の予定を恐れたローマ総督ピラトの命令によって、石で封印され番兵まで置かれたことが記されています。「大きな石」は、生きている者と死んでいる者との区別であり、ガリラヤから従ってきたマグダラのマリアを始めとする女性たちのイエスへの思慕や、別離の悲しみを隔絶する力の象徴となっています。その女性たちはイエスとの十分な別れができず、十字架の死に際して距離をおいてしか立ち会うことしかできませんでした。
 しかし、「大きな石」に象徴される愚かな人間的思惑は、「週の初めの日」にその石が横に転がっていたように断ち切られていきます。そして、マリアたちのせめて亡骸に香料をとの思いと「悲しむ力」がイエス復活の第一証人へと立たせていきます。そして、彼女たちは「空虚な墓」の前で「ガリラヤでお目にかかれる」との天使の言葉を聞き、さらに、復活したイエスの「おはよう」との声を聞いたことが記されています。
 このように、マタイ福音書のイエス復活の顕現物語が語るように、キリスト教の最も大切な十字架の出来事と復活の宗教的真理は、愛する者との不条理な別れを経験し、癒されがたい悲しみを抱いた女性たちによって先ず伝えられていったことが分かります。すなわち、復活の出来事はイエスへの思慕、失意と悲しみというマリアたちの思い、それと切り離して客観的に起こった出来事ではないということです。復活の出来事に示される宗教的真理は、その呼びかけに応じることで、自分自身が生かされることによって、初めてそれが真理であると認めることができるようになるものです。極めて人格的な事柄であるのです。
 復活信仰とは、その意味でイエスの生涯と十字架の死の出来事を、自分との関わりとして捉える「主体化する力」であることを、マタイ福音書は私たちに告げようとしています。悲しみを抱くマリアたちが慰められ、イエスに「おはよう」と声をかけられ、再び日常性を取り戻し、再び立ち上がる経験をしたこと告げるのです。そして同時に、イエスの復活は、罪と死の滅びから葬りを越えて、再び生き直すことができる大いなる希望の出来事なのです。

(説教要旨/菅根記)