<説教要旨>

「御心に適って」(5/30)

「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」

(マタイ福音書11章26節)

 私たちがささげる祈りは、「神との対話」「信仰者の呼吸」と言われています。しかし、危急の時、確かに、私たちが伝えようとする願いや祈りは、自分の状況が追いこまれていけば、いくほど、まず「短文」になります。本当に苦しい時の祈りは、全ての形容が吹き飛んでしまうと言われています。皆様の中にもそのような経験をしている方がいるのではないでしょうか。
 さて、本日の聖書個所であるマタイ福音書11章25節以降のイエスの言葉は、「イエスの祈り」について大切な内容を含んでいます。冒頭の呼びかけの言葉のように、神を「父よ(アラム語でアッバ)」(25節)と呼びかけています。つまり「パパ」「とうさん」との意味です。「主の祈り」の冒頭の「天におられるわたしたちの父よ」(6章9節)、また、ゲッセマネの苦渋の祈りをしたときもイエスは「アッバ」と祈られました。神を「父」と呼ぶのはイエスが初めてではありませんが、しかし、神を「アッバ」と呼んだのはイエスが初めてであったようです。なぜなら、「アッバ」は小さい子どもが使う言葉だからです。イエスが神を呼んだ言葉は、幼い子どもや家族が使う言葉でした。
 さて、イエスは、ここで「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子のような者にお示しになりました」と神に感謝と賛美をささげます。「これらのこと」とは、文脈からすれば、「イエスの福音全体」「天の国の秘密」のことを指しています。「幼な子のような者」とは、文字通りでは「幼児」。比喩的には「無学な者」、あるいは「小さき者」たちです。
 マタイ福音書はここで、「神の国」の真理、神の御旨は「知者や賢者」によって担われるものではなく、「幼な子」のような存在によって担われてきたと語ります。「知者」「賢者」は当時のファリサイ派や律法学者たちです。律法や掟に通じ知恵の集大成をしていった人々です。その知恵や知識で群衆を指導し時代を支配していった人々です。一つの時代を生き抜くための「大人の知恵」を有していた人々を指します。
 しかし、マタイ福音書は、神の福音を担う者たちは「小さき者」たちであったと宣言するのです。それは、当時のイエスの時代で言えば、「孤児」「やもめ」「捕虜」「病人」「貧困者」「寄留の民」たちの姿を指して、それらの人々によって、天の国の福音は担われてきたことをイエスは強調します。「小さき者」、「幼き者」は、神をより頼むしかない、神の支えを求めなければ「今」を生きることができない人々なのです。その「今」を生きる人々こそ尊く、神への信頼が豊かに示されていることをイエスは語るのです。

(説教要旨/菅根記)