<説教要旨>

「このように祈りなさい」(5/9)

「だから、こう祈りなさい」

(マタイ福音書6章9節)

 天を仰ぐように祈るときがあります。また、打ちひしがれ両手をこすり付けるように必死に祈るときがあります。老いも若きも人生の折々に神に向かって願いをささげます。自由主義神学者のピーター・フォーサイス(1848~1921年)は『祈りの精神』という著書の中で「祈りは自己を神に委ねる行為である」と祈りの本質を語っています。しかし、私たちは時に余りの痛手により、祈りの言葉すら失うときがあります。しかし、イエスはこのように祈りなさいと祈るべき言葉を与えてくださいます。
 私たちが主日礼拝において必ず唱える「主の祈り」。この原型は、新約聖書の中に二ヶ所に出てきます。一つは、今日の聖書個所「マタイ福音書6章9~15節」。もう一つが「ルカ福音書11章2~4節」です。マタイ福音書の「主の祈り」は、イエスが最も大切な教えとして語られた「山上の説教」の中で語られたものとして編集されています。特に、人前でひけらかすようなファリサイ派や律法学者たちの「偽善者の祈り」、あるいは、くどくど祈る「異邦人の祈り」に対して、誠実な思いと姿勢で祈りなさいとイエスが諭し示す設定になっています。
 この「主の祈り」は、私たちが普段「そうなって欲しい」と思う単なる願望の列挙とは違い、最初に何よりも「父よ」との呼びかけの言葉で始まっています。しかも、「何事のおわしますか知らねども、かたじけなさに涙こぼれる」ような相手が分からない存在ではなく、イエスが示す神へ先ず自らをさらけ出すことを促しています。そして、その父を日常語であったアラム語の「アバ」と呼びなさいと語ります。「アバ」は小さな子どもたちが使う言葉です。日本語の「お父さん」です。イエス独特の勧めです。つまり、神は遥か彼方の遠い存在で、「隠れたる神」のように私たちにとって近づき難い存在ではなく、私たちを憐れみ、罪の赦しを与え、常に近くにいて声を聞いてくださる方であることを示しています。
 さらに、「アバ」と祈ることを許す神は、イエス自身の背後にいる神であり、イエスの生涯と御業においてしか知ることのできない方であるのです。だからこそ、私たちの祈りは「イエスの名によって」としか祈ることができないのです。神学者エーべリングが、「父よ」と祈ることが許されていることこそが、「すでに一切の祈りの成就であり、聞かれたことではないか」と指摘します。まるで幼い子が母親に呼びかけるように、信頼の心をもって親しく祈ってよいとの勧めが最初の呼びかけであり、同時に「主の祈り」の全てを規定していると言えます。
 私たちの祈りがどのように実現するかは分かりません。それでも、「アバ」と祈ることが既に許されていることの恵を覚え、神に心を開く「祈りの生涯」を歩んでいきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)