<説教要旨>

「このことを信じるか」(4/25)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」

(ヨハネ福音書11章25節)

 人生において、それぞれ大小はあれど、様々な形で喪失の体験を人はします。大切な物、大切な場所、また大切な人など。それらを失ったときには、自らの一部が失われていくような、生きるための希望が失われていくような思いに駆られていきます。
 今回の聖書箇所ヨハネによる福音書11章17節からの所で登場するマルタとマリアもそのような喪失の出来事を眼前にして、悲しみの中にあります。病気であった兄弟ラザロを癒してもらうためにマルタとマリアはイエスのもとに人を送りますが、イエスが実際に来たのはラザロが「墓に葬られて既に四日もたって(17節)」からでした。イエスを迎えたマルタは「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに(21節)」とイエスに対して落胆の思いを吐露していきます。しかしイエスはこの「死に支配」され、落胆するマルタに対して、「私は復活であり、命である(25節)」と、また「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない(26節)」と宣言されます。そして「このことを信じるか」と問うていかれるのです。
 この「ラザロの復活」の物語は、ヨハネによる福音書の中で語られる七つの「しるし」の内、最後の七番目に語られる「しるし」です。このしるし物語の前にはイエスをユダヤ人が拒絶していく描写がなされ、後には「イエスを殺す計略」が配置されるように、イエスの十字架への道がまさに始まっていることがわかります。この場所に七番目の「しるし」として示されるのが「復活」の奇跡であり、これは、イエスの十字架での死とその後の「復活」の予型として語られている物語です。イエスはラザロの病気について、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである(4節)」と語られました。イエスがマルタとマリアのもとについたとき、そこにいる人々は大切な存在の死、喪失のために嘆き、悲しみ、「死にとらわれて」いました。しかしイエスは、この「死」に打ち勝ちラザロを「復活」させていきます。この「しるし」を通して、人々に「死は死で終わる事が無い」ということを知らされていくのです。
 喪失の体験というのは、それを前にしたとき、日常的な希望が打ち砕かれていきます。しかしイエスはこの「死」に対して、力強く「わたしは復活であり、命である」と宣言してくださいます。そして「死が死で終わる事が無い」ということをこのラザロの復活の出来事を通して、また、ご自身の復活の出来事を通して示してくださるのです。それを知る私たちは、「このことを信じるか」とのイエスの問いかけに対して、希望を抱き、イエスに従っていく歩みをもって応えていきたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)