<説教要旨>

「今日を新しく生き直す」(4/11)

「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」

(ヨハネ福音書21章7節)

 ヨハネ福音書の書かれた時代は、教会に対するローマ帝国による迫害が本格化する直前、特にユダヤ教徒よる迫害が相当に厳しくなった時代です。教会の宣教活動が停滞もしくは後退する中、教会員は人間的な努力だけではとても宣教が進展しないことを強く感じていたようです。復活したイエスの存在と言葉の励ましなくしては生きることができない状況があったようです。
 今日の物語は復活のイエスが、ティベリアス湖畔へ現われた「ガリラヤでの顕現物語」です。「大漁の奇跡物語」(3~6節)、「弟子たちと共なる朝の食事の物語」(9~14節)と続きます。漁に行ったシモン・ペトロを始めとする弟子たちは「その夜、何もとることができなかった。」(3節)との言葉のように、その漁が徒労に終わってしまったことを伝えています。「昔とった杵柄」で生きようとした弟子たちの憔悴した姿が表現されています。「私を離れ、あなた方は何もできない」(15章5節)とのイエスの「告別説教」の指摘の通りでした。しかし、その最中に復活のイエスは湖岸に現れ、「船の右側に網を打ちなさい」と語るのです。そして、大漁の奇跡を導いていきます。
 この大漁の奇跡を経験したペトロが向こう岸に立つイエスを見て湖に飛び込む記述が続きます。「上着をまとって」(7節)と訳されている個所ですが、これは、「仕事着」のことです。ペトロは裸が失礼であるから上着を着たのではなく、日常の虚しさ、宣教活動の虚しさ、徒労に終わるような失望感、それらすべてをひっ下げてイエスのいる岸辺に向かって飛び込むのです。
 このように、イエスの復活の命に押し出されて歩み出した初代の教会は、この弟子たちのように信仰的には一進一退を繰り返して歩んでいたのではないでしょうか。つまり、イエスが繰り返し復活した姿で弟子たちの前に現われ、励ましを与えなければ、共同体の信仰を守ることができない現実があったのでしょう。それが、ヨハネ福音書21章が加筆されなければならなかった状況です。
 そのような徒労で終わりそうな日々の中で、イエスは「朝の食事をしなさい」と弟子たちに語りかけます。しかも「炭火が起こしてあった」とあるように、イエスが先立って私たちのためにパンと魚を用意されて招いてくださっているのです。朝はいつでも主の業をなすべく遣わされる時です。朝は出発の時です。神の慈しみと恵みは朝ごとに受けとめるものであるようです。夕べに落胆し、失意にかられても、復活のイエスは朝再び立ち上がることを許してくれるのです。「さあ、来て朝の食事をしなさい」とのイエスのさわやかな言葉を毎朝のように聞いていきたいと思うのです。


(説教要旨/菅根記)