<説教要旨>
「神の沈黙とイエスの叫び」(3/28)
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」
(マタイによる福音書27章50節)
本日より「受難週」に入ります。この受難週の日曜日は「棕櫚の主日」と呼ばれ、イエスがエルサレムへと入られ、そこで群衆の歓迎を受けられた出来事が覚えられております。子ロバに乗ったイエスを群衆は大変歓迎し道に自分の服や木の枝を敷き「ダビデの子にホサナ」と声を挙げていくのです。この歓迎の出来事からそれほど間を置くこともなく、この群衆はイエスに向かって「十字架につけろ(27章22節)」と声をあげていくのです。この群衆の歓迎と拒絶は、イエスに対する群衆の自分勝手な、自分本位な期待と失望が表れています。イエスに対して自分の求める指導者像を映し出し、イエスの本質を理解しようとせず、そこに示される事柄に目を向けようとも、耳を傾けようともしない、そんな弱さが表れています。
群衆から拒絶され、弟子は逃げ、イエスの受難の歩みは孤独の中で進んでいきます。自らを理解するものは無く、受け入れた者は去り、孤独の中でイエスは鞭打たれ、罵られ、唾を吐きかけられ、茨の冠をかぶせられていくのです。そしてイエスは十字架へとつけられていきます。
十字架刑とは、当時のローマにおいて最も重い刑罰でありました。特にローマに反逆をした政治犯に対して用いられた方法であるようです。その目的はローマへの反逆に対する見せしめであり、屈辱と苦しみの中で死にゆく大変残酷なものでありました。人を愛し、弱くされる人々と共に歩まれたイエスが受けられたこの不条理な苦難。人々からの拒絶と嘲り、罵り。そして十字架刑。この惨めな姿、情けない姿でイエスは死に向かっていくのです。
イエスの死の直前。こう叫ばれます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(46節)」。孤独の中で、苦しみの中で、惨めな姿で、情けない姿で、死に向かおうとするイエスに沈黙を続けられる神に対してこう叫んだのです。しかしこの言葉は単なる嘆きではありません。詩編22篇の冒頭を引用した言葉であり、その詩は苦しみの中にあっても神への信頼を貫く、その信仰が語られるのです。不条理な苦難、その先にある死。神に見捨てられたと思えるような状況の中にあってイエスはなお神に対する信頼を叫ばれるのです。そして50節には再び「叫び(クラゾー)」声をあげられ「息(プネウマ・霊)を引き取られた」と記されます。これは神に自らの霊をゆだねる姿が示されているのです。
神と共に歩むことができず、多くの間違いを犯し、自分勝手に、自分本位になお神に期待し失望する。そのような罪を持った私たちです。イエスはこの罪ある私たちの代わりにこの不条理な苦しみ、辱め、嘲り、罵り、十字架上での死を受けられました。すべての人を救うために、その罪を贖うために、神の裁きを一身に受けられたのです。この惨めな姿に、この情けない姿に、わたしたちは最大の希望、救いを見るのです。
(説教要旨/髙塚記)
「イエスの飲む杯」(3/21)
「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」
(マタイ福音書20章22節)
フィリポ・カイサリアで「ペトロの信仰告白」を聞いた後、エルサレムに向かう決意したイエスは、その決意の直後を含めてエルサレム途上で三度にわたる「受難と復活予告」を行います。この展開は、マルコ福音書に依拠するもので基本的には「事後予言」と言われています。おそらく、イエスの死後初代教会の人々の信仰による解釈として、イエスの死に対する意味付けとしてこのイエス自身の予告物語が構成されたと解釈されています。本日の聖書個所は、その三度目の予告直後に当たり、そのイエスの予告に対応するように「ヤコブとヨハネの母の願い」の物語が置かれています。
さて、イエスの悲痛な三度の受難の予言を聞いた弟子たちはどのようにその言葉を受けとめたのでしょうか。彼らはイエスの苦悩や不安を感じとったのでしょうか。イエスのエルサレムに向かう決意として理解したのでしょうか。あるいは、自分たちの主であるイエスに最後まで従うことを決心したのでしょうか。しかし残念ながら、文脈からはそのような弟子たちの思いを感じることはできません。むしろ、弟子たちの徹底したイエスへの無理解さ。さらに、弟子たちの欲望や羨望が表れる展開となっています。
いつの時代も子どもにとって母の存在は大きなものです。受難予言した直後に登場するヤコブとヨハネの母は、イエスが支配するであろう「王国」において息子たちが最高位者の左右に座することを懇願(20〜21節)します。並行記事のマルコ福音書は弟子がイエスに直接懇願しますが、マタイ福音書は母親の存在を登場させることによって、弟子たちの権威を保とうとします。そのことは唐突な母親の登場の仕方からも容易に想像できます。しかし、逆に人間の持つ、「自己肯定」と「他者からの承認」という複雑な優劣感の姿を明瞭にする結果となっています。自分の弱さを直視できない肥大化する自我(自己中心性)が示されます。
そのような2人の弟子たちが求めた他者への優位性、同時に抜け駆けを許さない他の弟子たちの劣位さ(24節)、その激しい欲望と怒りが渦巻く中で、イエスは「仕えること」「僕となること」を訴えていきます。もちろん、このような生き方にも限界や不完全さが伴います。しかし、それでもイエスの招きには「優劣の世界」にない人の命の尊厳としての基本的承認があります。「イエスの飲む杯」(=十字架の死に示される赦し)という神による絶対的な肯定があります。そこに希望をおいてイエスの十字架の出来事を通して示される招きに従っていきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)
「低きに降るイエス」(3/14)
「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき・・・」
(マタイ福音書17章8~9節)
受難節第4主日を迎えました。本日の聖書個所は「山上の変容の物語」です。イエスはペトロ・ヤコブ・ヨハネだけを連れて、高い山に登り、彼らの目の前で顔・姿が変わり、モーセとエリヤと語り合ったという内容となっています。
さて、この山上に登場してくる「モーセ」は律法を代表する人物です。イスラエルの民にとって信仰の原点となった「出エジプトの出来事」を導いたリーダーです。エジプトのファラオの圧政に苦しむ奴隷状態であったイスラエルの民をエジプトから脱出させた先導者として、そして脱出後の40年にわたる「荒野の放浪時代」を導いた人です。
「エリヤ」は預言者の代表的存在です。北イスラエルの最初の預言者です。彼はイスラエルの民が約束の地カナンに入り、定着した農耕生活を営む時代、カナン人の神バアルとの文化的衝突の葛藤の中、ヤーウェの純粋な信仰に返るべき宗教改革を行った人です。カルメル山でのバアルの神の預言者たちとの対決は有名です。両者ともシナイ山で神と出会い、神の声を聞いた人です(出エジプト記33章18節以降/列王記上19章9節以降)。
この二人は神に立てられたイスラエルの民の指導者であり、同時に、神とイスラエルの民との狭間の中で苦闘し苦難を負って歩んでいく使命に徹した人々です。それは、これから十字架の道を歩むイエスも同様です。その両者がイエスと共に語り合うのです。この山上での3人の姿を見たペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。・・・仮小屋を三つ建てましょう」(4節)と直情的に感動し、その喜びを現状のまま保つために山に留まるよう提案します。ペトロがイエスの栄光に輝く部分しか見ていないことが分かります。イエスの受難予告を理解できなかったようです。
「山上の変貌の物語」の3人の会話は光輝くような栄光の姿ではなく、今後のイエスの苦難の道のりを暗示したものでした。これから起こるイエスの十字架の受難の道を確認する会話であったのではないでしょうか。そして、事実、イエスは山に留まらず、山を降りるのです。癒しや救いを必要とする人々のもとにいくのです。この世の中で、もっとも辛く苦悩をおった人々の出会いを求め、そして、究極的にはエルサレムへ向かって十字架の死へと歩み出すのです。
イエスが語り行う業は天上に留まるものではなく、地上の生活に呻吟する人々のもとに届く「巷の福音」です。イエスは地上で生活を織りなす民衆と共に生きることを求めていきます。それがイエスの十字架の生であり、私たちはそのイエスの生涯と十字架の苦難と死に執り成されているのです。
(説教要旨/菅根記)
「人生の節目を越えて」(3/7)
「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(マタイ福音書16章24節)
「イエス・キリスト」という名称は、「イエスはキリスト(メシア)なり」すなわち、「イエスは救い主である」という意味です。「イエスは誰であるか」との問いに対する「告白」の一つです。イエスについては、古くは「イエスは主なり」、あるいは「神の子イエス」との短い告白表現を福音書の物語からも見つけることができます。もちろん、50~60年代に執筆されたパウロの手紙の中には「イエスとはどのような方であったか」を表す定式化された文言や賛歌(ローマ1章2~4節/フィリピ2章6~9節)を見ることができます。その後、「使徒信条」のような「三位一体の神」が告白されるようになっていきます。
さて、本日の聖書個所は「ペテロの信仰告白の物語」です。弟子たちは「わたしを誰と言うのか」との問いをイエス自身から投げかけられる個所です。そして、この物語は共観福音書にとってイエスの生涯の「分水嶺」と位置づけられています。イエスと弟子たちとの「ガリラヤの宣教活動」から「エルサレムへの旅」が開始され、エルサレムでの「受難物語」へと転換する決定的な個所です。イエスの十字架に向かう決意と、弟子たちのイエスへの無理解さが際立つ物語となっています。
このペテロの信仰告白は、ヘルモン山の西南麓のフィリポ・カイザリアの地方で起こった出来事として記されています。イエスはここでエルサレムに向かうことを決意します。そして、弟子たちに「人々は、人の子を何と言っているか」(13節)と聞きただします。そして、決断を迫られるようにシモン・ペテロは「あなたは、メシア、生ける神の子である」(16節)と告白します。「生ける神の子」という表現はマタイ福音書独特の表現です。その応答に対してイエスは「あなたは幸いだ」と祝福の言葉を語ります。さらに、「この岩の上にわたしの教会を建てる。」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と語ります。ユダヤ教律法社会の中で、弟子たちや教会の働きが権威あるものであることを示しています。
しかし、それは弟子たちの立派さや信仰の確かさを表すことではありません。その後の「イエスの受難と復活予告の物語」では、ペテロは「サタン、引きさがれ・・」(23節)と激しくイエスに叱責されます。この文脈から見て「岩の上」や「天の国の鍵」という言葉は揺るぎない信仰の姿を示すのではなく、幾たびか躓く中でもなお問いかけてくるイエスのはからいを見ることができます。同時に、イエスの十字架への苦難の道が鮮烈なものとなっていきます。イエスの度重なる問いかけや叱責は、神や自分を深く知っていくためのものであり、人生の節目を越えていく招きの言葉なのです。
(説教要旨/菅根記)