<説教要旨>

「神の霊による解放」(2/28)

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

(マタイ福音書12章28節)

 私たちは日々生きる中で、自らの心に様々な感情を抱きながら過ごしております。それらは喜びや楽しさといった明るい良いものだけではなく、悲しみ・迷い・怒り・ねたみなどの暗いものもある事かと思います。この暗い感情というのは、発散・解放しなければ心の奥底にたまっていきます。そうなると思考を支配し、行動を支配し、暗い感情にどんどんと押し流されていってしまうような状態になっていきます。ふとした瞬間に、衝動的に、この感情に流されてしまいそうになった経験を持つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所、マタイ福音書12章22節からの箇所では、小見出しに「ベルゼブル論争」と記され、イエスの行う癒しが何の力によって行われているかについて、イエスとファリサイ派の人々が議論する場面が描かれています。ここで特徴的なのはやはり最初に出てくる「ベルゼブル」や「悪霊」、「サタン」といった単語であると思います。これらは聖書の中において、特に福音書では、人に取りつき、身体を不自由にしたり、その行動や精神を乗っ取るような存在として描かれています。また、有名な「荒野の誘惑」の物語では、人を誘惑し、惑わす存在として登場しております。私たちは、この悪霊、場合によっては「悪魔」と呼ばれる存在、それらによって惑わされ、とらわれ、正しき道をまっすぐと歩んでいくことが出来ない、そんな弱さを持っております。聖書においても私たちは、罪にとらわれ、神から離れていく、または正しき行いが出来ない存在であることが示されております。
 私たちは今、受難節の時を歩んでおります。この受難節は、イエスが、私たちの罪のために、苦しみを受けられ、そして十字架上で亡くなられた事を覚える期間です。このような弱さを持った、罪を持った存在である私たちが、神と共に歩む存在としてあることが出来るように、イエスはその身に苦しみと、十字架上での死という出来事によって罪を贖ってくださいました。そして、その後に私たちのもとへと、神の霊、「聖霊」を送ってくださったのです。これらによって、私たちは日々間違いながらも、迷いながらも、時には神から顔を背けてしまうような事がありながらも、繰り返し、その間違いに気づかされる時が与えられ、その度に赦しが与えられていくのです。31節には「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」と語られるように、神の霊によって、また、イエスの贖いによって、私たちは赦された存在となったのです。
 私たちは、日々の歩みの中で、間違いを犯してしまう弱い存在でありますが、「神の霊」によってこの罪のある状態から、解放され、神と共に歩む事が赦されているという希望を見据え、この歩みを進めて参りたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)

「言葉は近くにある」(2/21)

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことが出来る。」

(申命記30章14節)

 
 私たちは、毎日のように多くの言葉を語り、また聞いて生きています。コロナ禍の中で人と出会うことが少なくなって話する機会がなくなっている方がいるかも知れませんが、テレビ・ラジオ・携帯・インターネットで言葉は私たちの生きる空間を飛び交っているはずです。言葉のない生活は考えられません。世界のどんなところにいても情報を得ることができます。時に洪水のように押し寄せる言葉に流されるような経験をする時があります。しかし、その中でも信頼するに足る言葉をどれだけ受け留めることができているでしょうか。「人生の座標軸」となるような真実な言葉をどれだけ聞いているでしょうか。
 本日の聖書日課である旧約聖書の申命記の題名はヘブル語で「言葉」と呼ばれます。「モーセはイスラエルの全ての人にこれらの言葉を告げた」(1章1節)と始まる言葉が全体の表題となったと考えられます。日本語表記の「申命記」とは、「申」は「重ねる「繰り返す」との意味です。「申命」とは重ねての命令するに由来します。ギリシア語聖書では「律法の写し」(17章18節)を「デウテロノミオン」(第二の律法)と訳したのが題名になったおり、その表題から「申命記」と訳されたいったのだと考えられています。いずれにしても文体の特徴は説教体です。モーセがヨルダン川を渡って約束の地であるカナンの地に入る直前にイスラエルの民に語った告別説教をするとの設定になっています。
 その説教のまとめの部分が本日の箇所です。ここでモーセは「御言葉はあなたがたの近くにあり・・・」(14節)と語ります。「御言葉」とは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を、主を愛せよ」(6章5節)との根本命令のことです。そして、神が民に求めるその命令は「難しすぎるものでもなく」「遠く及ばぬものでもない」(11節)と指摘し、誰でもが心に受け留め、口にすることができるものであることを伝えています。しかも、御言葉は常に生きた現在の言葉として、「今日」新たに聞くことができる言葉であると語っています。そして、御言葉に従うときに「あなたを祝福される」(16節)と約束します。申命記の著者は信仰の言葉は一部の専門家が独占する秘密の知恵ではなく、神の民の全てが常に生きた語りかけとして聞くことができると、信仰の真理は万人に開かれたものであることを指摘しています。
 使徒パウロはこの申命記30章14節の言葉を引用し「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」(ローマ書10章8節)と語り、「信仰による義」が示されていることを伝えます。神の真実な愛の言葉が私たちの近くにあるのです。

(説教要旨/菅根記)

「招きの恵みに立ち帰って」(2/14)

「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

(コリント第一1章29節)

 使徒パウロはキリスト・イエスを小アジア・ヨーロッパに伝えた伝道者であり、最初の神学者・牧会者であったと言われています。また、天幕作りの労働者であり、多くの手紙を残した執筆者でした。彼は伝道旅行の時々に、特定の教会の人々を念頭に手紙を書き送りました。その手紙には諸教会の人々が抱えている様々な問題に対して対処する道を示す勧告や指示、信仰に生きるための励ましの言葉が記されています。パウロが一つの内容と形式をもった「手紙」を用いたことは複数の教会や集会を想定した「伝道文書」であったと考えることができます。
 今回の聖書個所はパウロの真筆性に高い7つの手紙の内の一つです。コリントの町はローマの植民都市としてアカイア州の州都として再建された港湾・通商都市でした。その街で建設されたコリント教会はパウロの第二伝道旅行中(紀元49~50年)に形成されました。会員の構成は大半が異邦人キリスト者であり、ユダヤ人キリスト者を含めて社会的階層は変動的であり多様な人々が集まっていました。そのため教会形成は難しく、パウロは相当に心を悩ませていました。教会内に分派問題、偶像や礼拝の問題、福音理解の問題などのほか、コリントの都市独特の自由さと放縦さからくる人々の振る舞いが教会内にも影響を与えていたようです。
 パウロはこの課題多きコリント教会の人々に対して、先ず「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(26節)と勧めます。「召される」とは、英語ではcallingです。呼び出しとか、天職の意味もあります。「ある特別な使命のためにあるいは目的のために呼び出されること」です。特にパウロにとっての「召し」は神の計画に基づくものとの理解を強く抱いています。さらに、パウロは、神が人々を教会に招いたのは人間的な「知恵」「能力」「家柄」ではなく、また、宗教的な「資質」ではなく、むしろ、「愚かな」「小さく弱く」「軽んじられている」人々こそ選んだと語りかけています。パウロは神の招きや選びの中に秘められている神の深い憐みにもう一度気づいていくことを促します。
 コリント教会の人々は教会設立以後、社会的経済的に富む者となっていったようです。そして徐々に人間的な知恵や力を頼むようになっていきます。パウロは召されたとき、すなわち、信仰を与えられた初心に戻ることを勧めています。そして、誰一人神の前で誇ることのないように生きることを促します。「初心忘れべからず」との格言のように洗礼を受けたときのキリスト・イエスの十字架による確かな恵みを常に想い起こしつつ喜びのある信仰生活を続けていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「向こう岸に渡ろう」(2/7)

「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」

(マルコ福音書4章38節)

 イエスは宣教活動の拠点をガリラヤ湖畔のカファルナウムにおいていたと言われています。そして、ガリラヤ湖畔の町々村々へ赴くときには、しばしば、「舟」を用いて移動したことが記されています。特に、マルコ福音書の前半部分である8章まで、イエスの活動を特長づけるのは「舟」と言うことができます。宣教活動の開始には「最初の弟子を招く物語」(1章16節以降)が置かれていますが、そこにはガリラヤ湖畔で網を手入れしているシモン・ペトロとその兄弟アンデレたちの描写から始まります。その後、「病気を癒す物語」「レビを弟子にする物語」など湖の岸辺でのイエスの活動が綴られています。
 そして、イエスは「向こう岸に渡ろう」(4章35節)と弟子たちに言われ、舟に乗り、イエス一行は次の目的地に向けてガリラヤ湖を渡っていこうとします。その湖上での出来事が本日の「嵐を静める物語」です。この物語は、おそらくガリラヤを中心としたパレスチナ地方に伝えられてきた民間説話が基になっていると言われています。当時、ガリラヤ湖は紅海・地中海と南の死海を含めて海の一つとして数えられていました。しかも、イエスの時代においては、海は魔物を住む場所として恐れられていました。この湖は時として渓谷に吹き下ろす強風によって、天候が急に崩れ舟が遭難することもしばしば起こったことが分かっています。「激しい突風が起こり」(37節)の表現は気候の急変ぶりを示しています。
 哲学者のヤスパースは、「人間がどうしても、逃げ切れない重圧のもとに喘ぐような状況」を「限界状況」と定義づけています。この状況に達すると人はそれまで培ってきた全てのものが相対化されていくと指摘しています。学問や知識、名誉や誇り、人生の中で獲得した業績や自信を含めて、それらが役に立たなくなり本来の自分が浮き彫りにされていくようです。漁師であった弟子たちすら、激しい突風に「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)と眠っていたイエスを起こし縋りつくのです。
 このような弟子の対応に対して、イエスは風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」(39節)と言われ嵐を鎮めます。さらに、弟子たちに「なぜ怖がるのか」と厳しい言葉を投げかけます。イエスは怖がる弟子たちに、厳しい現実の中でも足りてある恵みを数え、主が同乗されていることの信頼を取り戻すように促しているようです。私たちの人生において「向こう岸に渡る」ような人生の決断が迫られることがあります。それ故に、試練が待ち受けている場合があります。しかし、その時、主イエスが共にいたもうこと、神の守りの中で静寂な世界があることが示されます。それぞれの宣教の使命である人生の向こう岸に向かって今週も歩んでいきたいと思うのです。

(説教要旨/菅根記)