<説教要旨>
「柔和な方イエス」(3/6)
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
(マタイ福音書21章5節)
「ホサナ」との群衆の叫びと歓喜の声に迎えられながら、イエスはエルサレムに入場します。大勢の群衆は自分の服を道に敷いてイエスを歓迎します。このヘブル語の「ホサナ」は、「今救い給え」「私たちを救い給え」と言う意味です。あるいは、ダビデの子に「万歳」もしくは「祝福あれ」との歓呼と読むこともできます。イエスを救い主として熱狂的に受け入れていった人々の姿を映し出しています。
しかし、その熱狂さと奇妙な対比として、イエスはろばに乗ってエルサレムに入場します。かつて、作家の三浦綾子はこのろばに乗るイエスを評して、「キリストがエルサレムに入るにあたって、驢馬を選んだのはなぜか。馬にまたがって颯爽と入場されなかったのか。これはやはり、キリストの平和を愛する姿の現われであったのだろう。驢馬に乗った姿は、誰が乗っても格好のよいものではなく、見栄えはしない」と語っています。確かに、野生のろばは敏捷で剛健と言われています。しかし、その背は凸隆しているので人間が乗るには相応しいはずはありません。そのイエスの姿は人々には滑稽に映ったに違いありません。また、物悲しいイメージが湧き起こってきます。それは、人間の「光と闇」のコントラストを表すようなものとなっています。
ガリラヤからエルサレムに向かうイエスと弟子たちの伝道旅行はここで終結します。少なくともイエスはご自身の死ぬべき場所をエルサレムと定めていたようです。エルサレムはユダヤ教の神殿が建つところ。王の宮殿があり、イスラエルの民にとっては、繁栄と権力の象徴としての町でした。その名は「平和の基」との意味がありました。まさに、イスラエルの民にとっては聖地でした。それは、栄光と誉れの部分を宿す町の姿であり、他方、ローマの力に屈服された町であり、宗教指導者たちが律法による支配を強める影や闇を抱く町であったようです。エルサレムにも「光と闇」のコントラストを見ることができます。
イエスを来たるべき王として、救い主として歓喜して迎え入れた群衆は、その数日後に、イエスを十字架に架けていくことを賛成する人々になります。また、十字架に架かったイエスを罵り、祭司長や律法学者たちと一緒にイエスを代わる代わる侮辱していく姿へと変貌します。
エルサレム入場の姿はある意味で滑稽です。王として歓迎されながら、それとは全く反対に見えるからです。その姿は、「柔和な方」(5節/ゼカリヤ書9章9節の引用)としての存在を強調します。望みなき者たちのために自らを低く遜るイエスの柔和さは、人間の「闇」を執り成す十字架の苦難へと繋がる生き方そのものなのです。
(説教要旨/菅根記)