<説教要旨>

「イエスが触れると」(2/27)

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、、、」

(マルコ福音書1章41節)

 イエスが触れると、何が起こったのでしょうか。この時代、重い皮膚病に悩み苦しむ人々は、苦痛に耐えるだけでなく、神からも罰せられ、退けられている存在と思いこまれ「聖なる民」であるユダヤ人共同体から追い出されていました。聖なる都エルサレムに入ること、共に礼拝を守ることが許されず、人々と離れた荒れ野に定住しなくてはならなかったのです。ところがこの重い皮膚病にかかった人が、その禁忌を破って、イエスのところへやってきます。「感染力のある病気なのだから、人のいる場所に出てきてはいけない。人に会ってはならない」。それがどれほど辛いことであるかが、この重い皮膚病の患者の姿からも改めて感じ取れます。互いに対面で語り合うことがどれほど大切であるかを、私たちが今ほど痛感している時はないのではないかを思います。声を直に掛け合い、触れあい、笑いを交わし、身体から感情が表出されるのを互いに受けとめ合うという事が、私たちにとってどれほど大切であることか。感染症はその大切な全てを封じてしまいます。
 イエスはその人に言葉をかけるだけで癒やすことも出来たはずです。ところがイエスはあえて手を差し伸べてその人に触れて、声をかけられました。この人に触れれば、この人と同じ立場に置かれることとされていました。つまり神を礼拝する場から遠ざけられ、交流する場所からも、隔離されなければならないとされていました。皮膚病の人に対する差別意識、嫌悪の感覚、怒りの感情が、そのイエスにも向けられることになるのです。一見正しい規定によって、この病気の人は排除され、差別され、怒りをぶつけられる対象として、健康な者たちの向こう側に追いやられていました。しかし人を向こう側に追いやって、こちら側との間に壁を作り、安全なこちら側に立って声をかけるということに、イエスはとどまっておられなかったのです。その結果、イエスは公然と町に入ることは出来なくなりました。イエスは町の外で過ごさなければならない者となった。ところが大きな変化が起こったのです。イエスのもとへ人びとの方から集まってきたました。律法で禁じられたことを破った病気の人の行為を咎めることよりも、その人が回復したことを共に喜び歓迎する群れがそこに生まれたのです。一人の叫びへのイエスの応答が、人びとの中にある「本当は共に生きたいのだ」という思いを呼び覚まし、勇気づけ、人びとを新しい命へと招き入れたのです。イエスが触れると、このような奇跡が起こったのです。この喜びが、この招きが、私たちにも差し出されています。私たちは、この神の呼びかけに喜びをもって応える群れでありたいと思います。

(説教要旨/森田記)