<説教要旨>
「主の言葉は永遠に」(2/6)
「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」
(ペトロ第一1章25節)
「光陰矢のごとし」という諺があります。「月日の経つのはあっという間で二度と戻ってこないから、無為に送るべきではないという」戒めを含んだ諺です。特に、年度末が近づいてくると時間の経つ早さを感じます。また、単なる時間の速さだけでなく、貴重な人生の経験や自分の体の変化を含めて「移ろい行く早さ」を覚えます。そのような時、「移ろい行く自分」の対極にある「永遠性」を思い浮かべます。
本日の聖書個所はであるペトロの手紙第一1章24節は、イザヤ書40章6~8節の引用です。そこには「移り行く命」とそうではない「永遠に変わることのない主の言葉」が見事なコントラストで描かれています。「人は、皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(24節)と語り、「移ろい行く人間」を始めとした被造物の全て、生きとし生ける命、また自然の事象や出来事はいずれ終わりがあることを示しています。その被造物の空しさ、その脆さや弱さを見つめながら、なお、変らないものがあると言うのです。
イザヤ書40章は長い捕囚の苦しみを経験したイスラエルの民に対して上記の言葉を語り、ペトロ第一の著者は紀元90年代のローマ帝国による組織的な迫害が始まったキリスト者たちに対して語り、さらに、今を生きる私たちにとって「真の希望」は何かと問いかけています。それは、たとえ困難な出来事に出会っても、崩れることなく裏切らないものがあることを謳っています。どのような状況の中でなお、我々を支えて、立ち上がらせ、奮い立たせるものがある。それが、「神の言葉である」と聖書は語るのです。神の御旨・思い・熱情と言い換えることができます。さらに、ペテロ第一では第二イザヤ書の「神の言葉」を「主の言葉」と書き換えています。そこには、変わることのない私たちへと向かう神の御旨、思い、熱情だけでなく、キリスト・イエスの愛・慈しみを「主」という言葉に加味しています。つまり、「主の言葉」とはキリスト・イエスの恵みであり、キリストによる十字架の贖いであり、キリストを死者の中から復活された栄光の出来事を指すと理解することができます。そのイエスの愛、慈しみこそ、永遠に続くというのです。つまりイエスの生涯と十字架の死によって明白となった神の御旨こそ変わることのない真理であることを強調します。
著しい時代の変化、踏みとどまることも許されない時間の流れの中で、心身をすり減らして生きる現代の私たち。その中で変わることのないイエスの言葉が確かに私たちに与えられています。それは、今を生きるに十分な神の恵みであり温かさを示しています。
(説教要旨/菅根記)