<説教要旨>

「生かされてある命」(1/30)

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」

(コリント第一3章6節)

 コリント教会は、パウロによる第二伝道旅行の最中、アテネ伝道の後に創立した教会です。ギリシア半島南部、古くから交通の要所として栄えたコリントの町は、世界有数の人口を抱え、東西交易により商業的にも繁栄していました。人種的には雑多で、東西諸宗教・諸文化が混在する町である故に、教会の抱える問題も実に多様なものでした。その一つが「分派問題」でした。パウロは、先ず教会の人々が「心を一つにし思いを一つにして、固く結びなさい」(1章10節)と勧告します。
 本日の個所である3章は教会の人々が未だに人間のしがらみの中で、自己の拠り所や帰属意識を確かめようとする在り方を批判します。それは、「パウロは何者か」(5節)の言葉にその思いが強く込められています。教会の創立者である自分ですら相対化すべきことを促します。確かに、福音が伝えられるのは、必ず福音を証言する人がいるからです。神と私との人格関係の中で信仰は受けとめられどのような仕方であれ、福音は人をして伝わっていきます。その意味では、誰しもが福音を伝えた「忘れがたい師」を持つものです。しかし、パウロは自分の頼るもの全てを一度断絶させ、さらに、背後にあるものを見つめていくことを促します。それが「成長させて下さったのは神です」との言葉です。人との直接的な関係を越えた洞察力をもって、神に与えられた命を喜び自分らしく生かされ生きていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「教会に帰ろう」(1/30)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」

(マタイ福音書11章28節)

 私は、京都で生まれ、少年時代を垂水で過ごしていました。後に、福島県に引っ越し、そこで教会やキリスト教主義学校に通っていたこともあり、神様と私は出会いました。
 今回の聖書箇所は、聖書の見出しにも書かれてあるように、「わたしのもとに来なさい」とイエスがわたしたちに対して、つまり信仰者に対して言葉をかけています。25~30節のイエスの言葉は、2つに分けることが出来ます。1つ目は、25~27節の啓示を与えてくださった神様への感謝の祈りと父と子を知るものに対しての説明がなされています。2つ目は、28~30節で軛や安らぎを実はイエスが与えて下さるということが記されてあります。イエスの「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という招きの言葉は、現実世界で生き、不安や悩みを抱える私たちにとってなんと心強い言葉でしょうか。教会に週の初めに来ることの喜びと感謝を覚えつつ、日々を歩んで行きたいと思います。かつて教会のことを嫌いであった私に対しても、教会という居場所が今、与えられています。心から教会を愛していきたいと願うのです。

(本日証し要旨/坂本記)