<説教要旨>
「権威ある新しい教え」(1/23)
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」
(マルコ福音書1章22節)
本日の聖書の個所、マルコ福音書1章21節からで語られる物語はイエスが「霊」による誘惑を退けられ、ガリラヤでの伝道を開始され、そして最初の弟子たちを招いた後に記されております。イエスの本格的な伝道の始まりを記す場面であると言えます。
21節にイエスが訪れたのはカファルナウムの会堂であったと報告されます。この会堂とはユダヤ教のシナゴーグです。ここでは安息日毎にユダヤの人々が集まり、聖書が読まれ、その言葉の解釈や教えがなされておりました。ここでイエスの語る教えを聞いた人々は「非常に驚いた(22節)」と記されております。
ここで「非常に驚いた」と訳されているギリシア語は「驚愕する」「仰天する」といった非常に強い意味合いを持っております。驚愕した理由として続く言葉で「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」と記されます。当時律法学者たちは日本語でも「学者」と訳されているように、聖書の言葉にとてもよく精通しており、そこで語られる言葉には民衆からの信頼と尊敬が多く寄せられていました。それはある意味聖書という書物、律法というジャンルにおいての権威であったと言えます。しかしその「権威」はあくまで「人間の権威」という範疇を越えることはありません。
この個所で用いられる「権威」は元の単語を見れば「本質から溢れ出た」という意味合いを持って用いられます。よって、本来よそから持ってきた知識や教えを語る場合には当てはまらない言葉です。だからこそここで「権威ある者として」教えられたイエスに人々は驚愕するのです。ここでどのような教えが語られたのか。それをマルコは記していません。最初の弟子たちがそうであったように、イエスの言葉、教えは強烈な迫りをもってその御後に付き従っていくことを求めていきます。そこには細かい知識による解説や偉い先生の言葉の引用はありませんが、それでもその本質から出て、人々の本質に働いていく力が示されていくのです。
このことをあらわすように、24節からでは男に取りついた汚れた霊をその言葉によって追い出す描写が示されます。この汚れた霊は私たちの内なる本質的な弱さ、罪をあらわすものでもあります。イエスを通して示される神の権威によって、強烈な迫りを持ってなされる招きを前にした時、自らの欠けを自覚し、その存在から目を背けたくなります。しかし、イエスは目を背け「かまわないでくれ(24節)」と避けようとする私たちをもその力ある言葉によって、従う者としてくださるのです。
多くの言葉に装飾されるのではない、全存在を持って語られ、示される、そのイエスの教えに従って、従う者としての歩みを進めていきたいと願います。
(説教要旨/髙塚記)