<説教要旨>
「真実の言葉を求めて」(1/9)
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
(マタイ福音書4章4節)
イエスは公生涯の開始と同時にバプテスマのヨハネから洗礼を授けられます。そして、イエスは荒野で悪魔から誘惑を受けます。この物語は、マルコ・マタイ・ルカの共観福音書には同じ位置に置かれています。そして、「霊がイエスを荒れ野に送り出した」こと、「40日間」荒れ野に留まったこと、「悪魔から誘惑を受けた」ことの「3要素」は共通しています。
本日の聖書個所マタイ福音書4章1節以降の物語は、イエスが具体的にどのような誘惑を受けられ、また、どのように対応したかが詳細に描写されています。
さて、イエスが「霊」に導かれた「荒れ野」は、エルサレムの南東の丘陵地帯から死海に至る50~60キロの地域を指す(『聖書の歴史地理』より)と言われています。「荒れ野」は人を寄せ付けない隔絶した場所であり、同時に、人の精神を高める神との出会いの場として理解されていました。イエスは、そこで人間の持つ3つの欲望(食欲、権力欲、自己保身欲)に対する試みを受けます。
悪魔は40日間の断食をした空腹のイエスに「神の子なら」(3節・6節)といって迫ってきます。第二の神を試す誘惑においては、「神があなたのために天使たちに命じると・・」と旧約聖書詩編91篇11~12節を引用して神への信頼を巧みに装い語りかけてきます。イエスの「神の国」の宣教活動の志しや召命観をくすぐるような誘惑の仕方をしてきます。人間への誘惑は自分の考え方や生き方に近い所で起因することを示しています。それだけに間違いを起こしやすいもののようです。イエスもまた一人の人間として試みに出会っていることが分かります。
しかし、イエスは厳しい誘惑に対して旧約聖書の引用をもって跳ね返していきます。世界の王として君臨するのではなく、名誉も地位も求めない一人の仕える人間として歩むことを決断していきます。それは、ガリラヤで苦悩する民衆や打ちひしがれている群衆と共に生きようとするイエスの決断であり神の御心を示す人生の選択となっています。その姿は十字架の死まで貫かれ、「神の御心」を追い求めようとする試みは十字架の死に至るまで続いていきます。
「我々の人生は選択の連続であり、迷いの連鎖である」といわれています。それは、あるものを身に引き寄せ、あるものを遠ざける、そして、あるものを受け入れ、あるものを拒んでいくものです。特に、人生の節目、重大な局面での選びは人生そのものを決めていきます。そのためにも、常に「神の口から出る言葉」に心を向けて、人生の座標軸を形成することが必要です。今年も神に喜ばれる人生の決断を積み重ねていくために常に聖書の言葉に聞いていきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)