<説教要旨>

「主の道をまっすぐに」(12/12)

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」

(ヨハネ福音書1章23節)

 「初めに言があった」との短く美しいプロローグではじまるヨハネ福音書の1章。「ロゴス賛歌」を土台に書かれた賛歌の調べは、歴史の実在として誕生したイエス・キリストを派遣した神を賛え、「命の光」(1章4節)として肉となって降誕したイエスの存在を指し示しています。そして、イエス・キリストを証しするための重大な任務を負った「証人」「先駆者」としてバプテスマのヨハネが登場してきます。
 本日の聖書個所の冒頭の言葉、「証し」(マルチュリア)とは、「告白する」「否まず」との意味があります。一般には法廷用語として使われるもので、事件の真実を裁判官の前でありのままに証言することを意味します。見たことをそのまま公言することです。偽証は今も昔も法的には重大な罪であり、事実は事実として、事実でないものは非事実として語ることが求められています。ヨハネ福音書の著者は、「証し」あるいは「証しする」(マルテュレオー/1章32・34節参照)を多用します。良き訪れとしての「福音」は、イエス・キリストの到来によってもたらされます。それが「言の受肉」(1章14節)としてのイエスの誕生です。そして、イエスの生涯と十字架の死と復活の出来事よって示された「福音」は、人の言葉を通して伝えられていきます。このように、「福音」の真理を語り伝えるためには、真理の言葉を担い得る「証人」が必要となります。「言」「光」「命」としてのイエスと、その真実さを語り伝える「証人」の働きは切り離すことができません。
 バプテスマのヨハネの「証し」は、「エルサレムのユダヤ人」(指導者や議員たち)たちが祭司やレビ人を彼のもとに遣わし、「あなたは、どなたですか」と質問させた時の答えとしてなされたと記されています。しかも、「公言して隠さず」「・・言い表した」とあるように、「告白」を意味する言葉を重ねて用いて、ヨハネの答えの厳粛さを強調します。ヨハネの「証し」の第一声は「わたしはメシア(キリスト)でない」(20節)と語ります。徹底して一人の他者を指し示めそうとします。彼は「エリヤ」でも「預言者」でもなく、「後から来られる方」のために「道備え」をする役割しかないことを語ります。「荒れ野から叫ぶ声」(23節)というイザヤ書の引用も、自己を虚しくしたヨハネの姿を示しています。
 絶対的な肯定を受け、そこに究極的な価値を見出した人は、他のすべてを惜しみなく捨て、徹してその一つのために誠実に生きようとします。その生き方の中に、大切な方の生涯と死、そして命が示されていきます。「キリストの証人」として、イエスの命の道標となるべく、「荒れ野の声」として生き抜いたヨハネの告白に思いを馳せて、このアドベントを過ごしていきたいと思います。


(説教要旨/菅根記)