<説教要旨>

「コルバンをめぐる論争」(12/5)

「あなたたちは・・・これと同じようなことをたくさん行っている」

(マルコ福音書7章13節)

 最初のクリスマス、すなわちイエスの誕生は、当時の人々にとって日常の意識を覆される出来事でした。メシアとされる方が世界の中心エルサレムではなく寒村ベツレヘムで誕生し、王宮のベッドではなく家畜小屋の飼い葉桶に寝かされ、しかも最初の訪問者は権威ある者ではなく、社会で軽んじられていた人だったというのです。これらのエピソードが史実であったかどうかはともかく、この出来事に接した人たちが受けた衝撃は十分に伝わってきます。
 今朝、教会暦が待降節第二主日のために選んだマルコ7章の「コルバン論争」の登場者も、やはり衝撃を受けています。この箇所はイエスとファリサイ派の間で手を洗うことをめぐって起こった議論を紹介しています。福音書でファリサイ派は律法遵守を強いる頑なな人として描かれることが多いと感じますが、他面、信仰に対して真面目な人でもありました。
 このグループはもともと在家(信徒)の信仰運動でしたが、祭司階級のサドカイ派に課せられた戒律を自身にも課す、厳しさをもちあわせていました。さらに当時の律法(旧約聖書)は、彼らのグループから見れば数百年前に造られたもので、時代に合わないとも感じていました。そこでその律法を守るためにしばしば解釈を繰り返し、それを「言い伝え」(パラドーシス)として律法に並ぶ重さを与えていました。言い伝えはいつの間にか律法が本来大切にしていた「互いに愛し合う」精神を置き去りにし、救いを保証する簡便なマニュアルとなっていってしまいます。
 イエスはコルバン(供え物)の規定を取り上げ、言い伝えの欠落点を指摘します。コルバンはヘブライ語の「近づく」(カーラブ)から派生した単語です。「供え物」と訳されますが、礼拝に際し神に近づく儀礼といった理解だったのでしょう。しかしこの規定も父母への責任、さらには隣人愛をも反故にできるよう歪められてしまいます。誰もが神に近づくことに躍起になり、その方途を考え論じ、この規定の策定に疑問をもつこともなかったのでしょう。元来は供え物も、共同体で神殿を支えるという喜ばしい約束でしたが、その志しも、自身の救いの条件にすり替わっていたのです。イエスは、神の側から人に近づいてくる信仰を語られました。
 イエスはあるとき「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言われました(マタイ10:34)。本日のテクストも、激しい叱責と逆説的な言い方で「平和」の到来を語ります。主の到来の多様さを心に留めたく思います。

(説教要旨/飯記)