<説教要旨>

「主を待つ心」(11/28)

「いつも目を覚まして祈りなさい」

(ルカ福音書21章36節)

 「あなたはエレベーターを使う時“閉”のボタンを押しますか」と聞かれたことがあります。私は必ず押してしまいます。実は、エレベーターの開閉ボタンを押さなくても5秒ぐらいで自動で開閉するそうです。日常生活ではその5秒が待てないことにはっとさせられました。
 本日から、「アドベント」(待降節)となりました。「アドベント」はラテン語の「アドヴェニオー」が語源となっています。これは、「来臨する」「接近する」「到来する」あるいは「突然起こる」という意味があります。その救いの到来である救い主を心して待つ季節となりました。もちろん、「果報は寝て待て」という諺がありますが、そのような気長な待ち方でなく、「期して待つ」ことが求められています。
 本日の聖書個所でイエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と弟子たちに語ります。この個所はマルコ福音書13章の「小黙示録」を基にまとめられたものです。エルサレム滅亡と終末問題について触れ、日常をどのように生きるかを問うている個所です。イエスは終末の備えについて、先ず「いちじくの木の譬」(29~33節)を用いて話します。いちじくの木は、常緑樹の多いパレスチナにおいてこの木が新葉と新芽を現す時、冬の終わりを告げるしるしとして人々に周知されていました。そこから民族の運命の象徴として言及されています。イエスは終末が将来に起こることを明言し、同時に、「中間時の倫理」として捉え、キリスト者の生の在り方を深く示唆します。
 これらのイエスの言葉の背後には、ローマ帝国からの独立を求めたユダヤ戦争(AD70年)の敗北と、エルサレム神殿の崩壊の出来事がありました。そのような民族の危機と混乱の中で、歴史性を失った熱狂主義、あるいは厭世的無気力な懐疑主義に走っていく人々の問題があったようです。
 「目を覚まして祈りなさい」とのイエスの言葉は、世の終わりへの安易な期待や、日常からの逃避ではありません。現実の苦難や厳しい人生の課題を負って生きる中でも、個々の使命や責任をもって歩むことを促すものとなっています。さらに、共同体である教会の宣教の働きに弛まず励むことが求められています。「やがて」現実化する神の救いの完成を期して待つこと、同時に、「いまだ」救いの完成が途上であることを確認しつつ歩むこと、その緊張感が漂う言葉となっています。
 待降節(アドべント)の第一主日を迎えました。主の待つ信仰の季節となりました。「待つ」とは「思慮深く見ること」「開かれた眼差しで待つ」ことを意味します。日常の営みの中で出会う出来事の一瞬一瞬を「目覚めて」受けとめ、信仰的自覚と弛まざる祈りを捧げて歩んでいきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)