<説教要旨>

「天に富を積むこと」(11/21)

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」

(マルコ福音書10章27節)

 本日は「収穫感謝日」として、礼拝を守っております。共に、「神によって与えられた恵み」について聖書の言葉から聞いていきたいと思います。
 本日聖書日課によって選ばれた聖書の個所、マルコによる福音書10章17~31節では「金持ちの男」という小見出しが付けられた物語が記されております。ここでは、「永遠の命を受け継ぐ(17節)」方法に関するイエスと男の問答が描かれております。この物語の中で印象的な言葉として「見つめる」というイエスの姿が21節と27節の2度にわたって記されます。一度目はイエスの示された十戒の項目を「守ってきた(20節)」と答える男を、「慈しんで」「見つめ」られる場面。そして二度目は神の国に入ることの難しさに困惑を示す弟子たち(26節)を見つめられる場面です。一度目にはイエスに対してある種高慢にとれるとも思える態度で答えた男に対して、二度目にはイエスの言葉を正しく理解出来ない弟子たちに対してでありますが、これは決してこの男や弟子たちを戒める意味や責める思いをもって行われた行為ではありません。そのことは、21節にイエスが男を「慈し」まれたと示される事からもわかることです。
 相手を見つめるということは時としていくつもの言葉で語るよりも多くのことを、あるいは深いことを相手に伝えていきます。特にそれは、一対一の一個の個人として関係性を結んでいく時になされる関わりです。相手の「じっ」と見つめていく。それは「あなたとの関係性が今ここにある」ということを示す行為です。聖書においては神と人との関係性が記される時、創世記のアダムとエバの物語においても神との約束を破った二人は「主なる神の顔を避け(創世記3章8節)」たとあるように、顔を背ける行為はその存在を受け入れず拒絶する行いとなります。それとは逆に向き合い「見つめる」という行為はその存在を受け入れ、関係性をつないでいく行いです。イエスがこの男や弟子たちを見つめられる姿は、その存在をその本質から見つめ受け入れ、関係性をつないでいこうとされる愛に溢れた姿であります。
 神の前に常に正しくあり、神に喜ばれる「善い者(18節)」となる事は人間には大変難しい事かもしれません。向き合うことが出来ず、顔を背けてしまうのはいつだって弱さを持つ人間の側であります。しかし、イエスがそのように示されたように、神はいつでも私たちを「じっと見つめ」、私たちがそれに気づき向き合うことを待っておられます。恵みはいつでも私たちの行いに先行して与えられるのです。その与えられた恵みに感謝して、神の前に立たされていくとき、私たちは神の豊かな恵みゆえに、すべての所有は放棄され、何一つ持たずに、主の示された道を、恵みへの感謝をもって主にゆだねて歩んでいくのです。

(説教要旨/髙塚記)