<説教要旨>

「イエスの眼差し」(11/14)

「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。」

(マルコ福音書9章36節)

 新規のコロナ感染者が減少し、油断はできませんが教会・幼稚園の日常活動が戻ってきました。11月に入って付属石井幼稚園では恒例の「動物園ごっこ」、いずみ幼稚園では「お店屋さんごっこ」が行われました。子どもの心の広さ、柔らかさを改めて覚えました。2つの「そうぞう(想像・創造)力」の素晴らしさと、子どもの自由な世界を垣間見ることができました。私たち「大人」は「分別」を持ち、多くの場合、経済的・効果的・生産的な「実利」の世界を大事にして生きています。しかし、子どもの世界はそうではないようです。おおよそ2000年前、イエスは、大人の通念や実利の観念から見たら「取るに足らない子どもたち」の中に「神の国」の現実を見て取りました。
 本日の聖書個所は、イエスと弟子たちの一行が十字架の受難の待つ、エルサレムへと旅している途上の出来事として描かれています。イエスはこのエルサレムに向かう途上で、受難予告を三度反復(8章31節/9章31節/10章33節)されており、それぞれの予告の後には、繰り返し弟子たちの「無理解さ」を指摘し、弟子としての歩むべき道を語ります。このような文脈の中で、本日の物語は、前半に「誰が一番偉いか」との弟子たちの争いが描かれ、そして、後半には一人の子どもの手を取って真ん中に立たせて、子どもを受け入れるようにとのイエスの言葉が記されています。
 イエスに招かれ、宣教活動に従事していた弟子たちは、イエスの意を解せず「誰が偉いか」との序列化への欲求を示します。そこで、イエスは「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)と諭します。さらに、子供を受け入れていくことを勧めています。子供を受け入れることはイエス自身あるいは神を受け入れることになることを示します。
 イエスの時代、「ユダヤ社会の教育目標は契約の民の神を恐れる成員になることができるようにしつけることであった」(ハンス=リュ−ディ・ウェ−バー)と言われています。すなわち、子どもは大人から教えを受ける者であり、「潜在的な学習者」としてだけ重要視されていたにすぎませんでした。そのような教育観が支配する中で、イエスは子どもを弟子たちの「真ん中に立たせ、抱き上げて」受け入れることを促していきます。
 イエスの語たる神の国は「誰が偉いか」を争う弟子が存在感を表すのではなく子どもが中心になっています。この世の通念と違う大きく転倒された神の国の現実が示されています。最も弱く小さな者が最も大切であるとイエスは語るのです。それこそが神のみ旨であると弟子たちを諭します。

(説教要旨/菅根記)