<説教要旨>
「涙するイエス」(11/7)
「イエスは涙を流された」
(ヨハネ福音書11章35節)
聖書には涙にまつわる印象的な言葉が幾つもあります。例えば、「悲しむ人々は、幸である、その人たちは慰められる。」(マタイ5章4節)のイエスの言葉。「喜ぶ人と共に喜び、泣く者と人と共に泣きなさい。」(ローマ12章15節)のパウロの勧告。あるいは「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」との詩編(30篇6節)の歌など。あるいは、エルサレム入場の折、都が見えた時、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」(ルカ19章41~44節)と言って、イエスは「エルサレム陥落」(AD70年)を見据えてか、その都のために泣いたとの記述があります。それらの中で「涙に力がある」ことを覚えさせてくれる最も象徴的な表現として読み取ることができるのが、今日の聖書個所である「ラザロの死と甦りの物語」です。
マルタとマリアの兄弟であるラザロはベタニアの出身。その愛するラザロの死に直面したマルタとマリア、そしてそれを取り巻くユダヤ人たちの別れの悲しみの涙に包まれた時、イエスが激しく憤り「イエスは涙を流された」(11章35節)と描写されています。「ダグリュオー」というギリシア語は、「落涙する」という意味です。ハラハラと涙を流す光景が浮んでくる言葉です。大きな声で泣いたり、取り乱していくというイメージではなく、「しみじみと」した涙の光景です。
確かに、このイエスの激しい感情への解釈は幾つかに分かれるところです。マルタやマリアに対する憐れみ、彼女らを始めとするユダヤ人たちの不信仰に対する怒り、死の支配に対する怒りなどです。確かに、死は虚無に服するような深淵なる闇を作り、愛する者たちを悲しませていく現実があります。そして、イエスは確かに涙を流すのです。それは、人間として私たちと共に同じ地平に立つイエスの姿です。それは取りも直さず、私たちも泣くことを主は赦すということです。
さて、ラザロの墓の前で再び憤りを覚えたイエスは、「その石を取りのけなさい」(11章39節)と命じます。墓は人生の終着の場です。しかし、イエスはこの甦りの奇跡を石を取り除くことによって開始させていきます。その取り除きによって「私が復活であり、命である」(25節)ことを表していきます。石が生と死を分けるように、その境界を消滅させていく出来事として描かれています。共感し共に涙を流すイエス。その涙が死に至る虚無を打ち砕いていったようです。ヨハネはそのイエスの命に繋がる時に私たちも新しい命を与えられていくことを語ります。そのイエスの涙に希望をかけて歩んでいきたいと思うのです。
(説教要旨/菅根記)