<説教要旨>

「神による完全」(10/31)

「主の律法は完全、、、すべてを義とする」

(詩編19篇8,10節)

 10月31日は宗教改革記念日です。1517年のこの日、マルティン・ルターが「95条の論題」を公表しました。彼はローマ教皇の方策に対抗して「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」と訴え、これが後にプロテスタント教会の基本原則とされました。ルターはローマの信徒への手紙3章28節「人が義とされるのは律法の行いではなく、信仰による」というパウロの言葉からこの理念を引き出します。それは「人を義とするのは神」(ローマ8:33)に繋がります。これはパウロが発見した信仰理解ではありません。長い聖書の歴史から導かれた信仰です。今日は詩編19篇をご一緒に読み、この信仰を考えたく思います。終結部で、作者は「完全になる」と語りますが、自分の信仰が非の打ち所がないといっているのでしょうか。
 新共同訳聖書を見ると、この詩編は四つの段落に分けられています。それぞれが独立した作品であったという見方もありますが、どのように関係づけられるでしょうか。最初の段落(2-5節b)では、まず創世記第1章で創造された天、大空(2節)、昼、夜(3節)が神を力強く証しする情景が描かれます。ところが4節は、それらの証しが「話すことも、語ることもなく、声は聞こえない」と述べます。分かりにくい表現ですが、証しのレベルに達していないと、何か突き放すような言い方です。しかし5節は「(にもかかわらず)その響きは世界の果てに向かう」と前言を覆します。ここにはある種の対話が読み取れますが、貧しい証しが自身以外の力によって、神によって証しとされることが示されます。
 第2段落(5節c-7節)は、太陽崇拝のテクストと読めます。元来は古代オリエントに一般的な太陽神称揚を目的としていたのかもしれません。詩編19篇の作者は、この段落冒頭で、神が太陽のために活動の場(幕屋)を設けたと述べ(5節c)、その働き(証し)も「神による」ことを印象づけます。第3段落(8-11節)は、律法を至高のものと位置づけ、各詩行後半でその効用を説きます。その頂点となる10節b「ことごとく正しい」は、律法の権威づけを試みているかに読めますが、この直訳は「それら(複数形=律法)が全てを義とする」。律法の特性は、それ自身の誇るべき権威の中にではなく、他者の義のために奉仕するところに見出される、と語ります。
 「義」とは、神が対象を正しいものとして受け入れる、ということです。詩編19篇の作者は14節で、神による義のゆえに「完全になる」と申します。不完全な証ししかできない者を、ゆるし、善き者として受け入れる。ここに私どもが願う「完全」が示されています。

(説教要旨/飯記)