<説教要旨>

「神の前に豊かに」(10/24)

「有り余るほどの物持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」

(ルカ福音書12章15節)

 本日の聖書の個所ルカによる福音書12章13節からでは「愚かな金持ちのたとえ」が語られる物語が記されております。13節の始まりでは、ある一人の人がイエスに「遺産相続」に関する問題への相談を持ちかけております。当時ユダヤではユダヤ教の指導者であったラビがそのような民事的な調停を担うことがあったため、この人がイエスにそれを持ちかけるのは突拍子もないことというわけではありません。しかし、イエスはこの相談に対して「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか(14節)」と拒絶され、さらに「どんな貪欲にも注意を払(15節)」えと警告していくのです。そして語られていくのが「愚かな金持ちのたとえ」です。
 このたとえでは、ある金持ちが豊作であった実りを納めるために倉を建て直し、そのたくわえで今後豊かに暮らしていけると喜んでいるようすが語られます。しかし、その結末としてその日の夜にこの金持ちの命が取り去られてしまう事が語られるのです。このたとえで特徴的な点は、原文を見てみると「畑」や「作物」、「倉」、「魂」といった単語の前に必ず「私の」という語が入っている事です。これらはそれらを自分の領分の中で自由に出来るものであると認識している事を示しています。これは「私の」持っているものは、「私の」思うままに扱え、それによって生きていくことが出来るというこの「金持ちの男」のある種の傲慢さを示しているのです。そしてその自由に出来ると考えているものの中には「魂」までもが含まれているのです。しかしそれに対してイエスは否をつきつけます。イエスはたとえを語る前に「どんな貪欲にも注意を払い」なさいと警告されます。この「貪欲」は原語で「さらに」と「持つ」との単語から形成された言葉です。今ある中で満足せず「さらに」求めて「持とう」とする。しかもそれが自分の力となり、それを頼りに生きていけると考える。そのような在り方を戒められるのです。どれだけ自分のための富を蓄え、それを頼りに生きていこうとしても、自らの「命」は自らの力によってだけではどうすることも出来ない。命が与えられ、その終わりを迎える時、それは私たちの力の及ぶところではなく、神に委ねたところにあると示されるのです。
 私たちは、目の前の見える「富」である「財産」などの豊かさに目を向けてしまいます。しかし、「命」に向き合う時、本当の「豊かさ」はそのような形あるものにとらわれたところではなく、不安も恐れも迷いも、それらすべてを神に委ね、命与えられる恵みに感謝するところから生まれてくるということをイエスは伝えているのです。「神の前の豊かさ」に目を向け、恵み受けることに感謝をもって日々歩んでいきたいと願います。

(説教要旨/髙塚記)