<説教要旨>
「心の底から新たにされて」(10/3)
「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、、、」
(エフェソ書4章22~23節)
「新生」という言葉があります。神から離れて「罪」の中にあった人間が、主イエスによって示された神の恵みによって霊的に「新しい人」(=神の子)とされることを言います。「新しく生まれる」(ヨハネ福音書3章3節)、「水と霊とから生まれる」と言い替えられることができます。これは「洗礼」によってキリスト・イエスの命につながり、「永遠の命」を受けることとして受けとめられていきます。キリスト者の倫理は、すべてキリストの恵みによる応答から始まる「新しき人の倫理」ということができます。
本日の聖書個所であるエフェソの信徒への手紙4章17節以降は、「古い生き方を捨てる」(17~24節)こと、そして「新しい生き方」(25~32節)を始めることが勧められています。特に、25節冒頭には「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」との勧めがなされています。神の民として招かれ、イエスの愛と執り成しによって罪赦された者は、同時に神の「真実」を求めて生きることが求められています。すなわち、イエスによって表われた神の真実さ、それを具体的に、それぞれの日常の場で、身近な関係性の中で体現していくことが促されています。「福音の結実」としての生き方が示されています。
そのような生き方をエフェソの著者は「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ・・・」(22節)と語ります。この「新しい人」の創造という発想は、旧約聖書の創世記1章の創造物語を意識して書かれていると言われています。創世記によれば、「神の天地創造の業の中で、人は神の形として創造された」とあるように、人間は「神の似像」(イマゴ・デー)として造られたと書かれています。それは、神と同じ姿という意味で、人間の尊厳性を表しています。人は尊い存在であると創世神話は語るのです。しかし、同時に人間は、土(アダン)で造られた有限な存在であり、最後は「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」帰らざるを得ないはかない存在であることから、常に人は間違いをおかし、人としての弱さを抱え、破れや愚かさを持つのです。このように、聖書の人間理解は両義性をもって捉えられています。だからこそ、繰り返し神の真実を求めてくように、常に古い自分を捨て「心の底」から人生の生き方の修正が必要なのです。
「心の底」とは、魂の最深部、「思念」とも訳せるところです。その神に応答する根源部分から日々新たにされて生きることが求められています。形式的な表面的な変化ではなく根源的な新しさを求めています。人の心や意思は熱しやすく冷めやすいものです。また、「心の頑さ」を持っています。日毎にみ言葉によって「新しい人」として造り変えられていきたいと思います。
(説教要旨/菅根記)