<説教要旨>

「今日リンゴの木を植える」(9/26)

「兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」

(テサロニケ第二3章13節)

 もし、明日世界が破滅に向かうことが分かっていたら、私たちは何をするでしょうか。全財産を使ってどこかに逃げるでしょうか。どうせ何をやっても無駄だから、豪華に遊びつくすでしょうか。こういった破滅的な行為の裏には、絶望が心を支配している様子が思い描かれます。
 本日の聖書箇所である第二テサロニケ3章6~13節で語られている状況として、テサロニケの共同体の中には、「終末」、「キリストの再臨」について誤った理解をし、この世的な働きをせず、共同体において必要物を得るため、また支え合うための役割を果たさない、「怠惰な生活」を送る人々がいたようです。「怠惰」というように訳されている言葉ですが、これはギリシア語で「ατακτως(アタクトース)」との単語が用いられています。これは直訳するならば「無秩序」という意味です。積み重ねがなく、継続性のない、周りや先を見ない、自分本位な歩みであることを示しています。
 このような在り方に対して著者は「落ち着いて仕事を」、「たゆまず善いことを」していくことを命じていくのです。誤った教え、考えに流されることなく、惑わされることなく、これまでと変わらずに与えられた仕事、役割を果たしていくこと、また、「善いこと」なすようにと命じていきます。この「善いこと」はキリスト・イエスが地上において示され、命じられたように、共に歩む人々と互いに愛し合い、仕え合い、支え合い生きていくことであります。いつの時も愛を持って他者と関わり、自分の事だけでなく、自分の事のように他者に思いを寄せていくということであります。
 現代のこの日本において、他者とのつながりというのはだんだんと希薄なものになって行ってしまっております。そのような状況の中で、他者との顔が見える関係が失われ、人格的な関わりが失われていくことで、自分が良ければというような、他者をかえりみない在り方が拡がってしまうように感じます。そのような傾向は、このコロナ禍にあって、直接的な人との交流が制限される中でさらに強まってしまうように感じさせられます。しかし、このような時であるからこそ、改めて、イエスがその生涯において示された共なる歩み、人に寄り添い、語り、共感する、その愛の行為を思い起こし、そして、そのイエスが命じられた「互いに愛し合い」、支え合って生きるその教えを全うしていきたいと思うのです。キリストにあって連なっている、この共同体の中で、なかなか直接的な交流ができない今だからこそ、共に祈り合い、共に覚えて、それぞれに、隣人のために出来る働きをなしていきたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)