<説教要旨>
「掴もうとする力を緩めて」(9/19)
「貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」
(マタイ福音書19章21節)
「ものをほしい心から離れよう/
できるだけつかんでいる力をゆるめよう
みんな離せば/死ぬるような気がする
むりにいこじなきもちを離れて/
いらないものから一つずつ離していこう」
(八木重吉作『ねがい』より)
八木重吉は1898~1927年まで活躍した詩人。東京南多摩(町田市)生まれ。東京高等師範学校在学中の1919年に洗礼を受けたが、しだいに内村鑑三の無教会主義の信仰に近づいていく。1921年兵庫県御影師範の英語教師として赴任。このころから詩作に熱中し、詩と信仰の合一を目ざすようになる。第一詩集『秋の瞳』を刊行。しかし、翌26年より結核のため病臥。1927年(昭和2)10月26日没した。
ところで、人間の生き方の中には、富み栄えていく生き方、何かを獲得していく生き方に象徴されるような「足し算的生き方」と、他者のために自分の中にある「賜物」を献げていくような「引き算的生き方」があるように思います。イエスの十字架の生涯も後者の生き方であり、イエスに従うということの意味を考えさせられます。
本日の聖書個所に登場する「金持ちの(富める)青年」は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか」(16節)とイエスに投げかけます。イエスは、その問いに対してモーセの十戒の掟を守ること(18節)と答えます。すると、青年はその掟を守っていると自負すると共に、「まだ、何か欠けているのでしょうか」と尋ねます。イエスは、「もし、完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる」と答え、それから「わたしに従いなさい」と命じていきます。
この富める青年は自分の人生をきちんと生きてきた人のようです。小さい時から律法を守り、おそらく自分で着々と様々なものを獲得し、それを積み上げてきた人だったようです。「永遠の命」を得るとの課題すら自分の手に獲得できるものとして考えていたようです。イエスはそんな富める青年に向かって、終わりなき「足し算する人生」の転換を迫るように答えたのかも知れません。しかし、彼はそのイエスの招きを受け入れることができず、「悲しみながら立ち去って」(22節)行きました。
マタイの著者は、このやり取りをイエスと弟子たちの対話という形で、「財産」と「服従」の関係を取り上げて論じていきます。イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23節)と解説します。富める者が救いに与ることの困難さを指摘します。それでもなお「信仰とは言わば、ありえざる姿勢の確かさである」(石原吉郎)と言われるように、掴んでいる力を一つ一つ緩めて生きることができればと思います。
(説教要旨/菅根記)